「ねぷた」の運行

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運行の状況をみると、「国日記」享保十一年(一七二六)七月十一日条によれば、五代藩主信寿は午後五時に織座へ来て見物し、午前一時に城へ帰った。同十五年七月六日条には、午後五時に同所へ来て、午後十時過ぎに帰城したとみえているので、夜遅くまで運行されていたことが知られよう。
 藩主の上覧の場所はこのように織座であったが、享保以後は三の丸(堀の土居に小屋がけして見物)か竹長屋(現一陽橋(いちようばし)を渡って西隣り)で観覧している。幕末の天保五年(一八三四)七月七日に一〇代藩主信順(のぶゆき)が上覧した際の「ねぷた」は、見物人がおびただしい数に上り、ものものしい警戒のもとに運行された(前掲『ねぶたの歴史』)。これらは町人の大人による運行と思われるが(藩士は正式に参加できないので仮装して出たらしい)、城下の祭として盛んになってきている様子を推定できる。
 次に町人がみた幕末の「ねぷた」運行の様子を「金木屋日記」(資料近世2三六二~三六三頁)によってみてみたい。
 嘉永六年(一八五三)七月五日の夜、賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町(いわきまち))の豪商武田家の人々(又三郎敬之(またさぶろうたかゆき)・妻ら六人)が、家老大道寺(だいどうじ)家(現弘前中央高校グランド西側で弘前城東門に近い位置)の門わきへ蓙(ござ)を敷き、自分達が勝手に「ねぷた」の優劣の審査をしながら楽しく見物している。やがて武田家では「ねぷた」を見送って本町(ほんちょう)まで来たところ「明け七ツ」(午前四時~六時)となり、そこから賀田村の自宅へ歩いて帰ったので朝になったという。
 翌六日も城下へ出てきている。見物していた場所は明らかではないが、鍛冶町(かじまち)の「ねぷた」が大きく、二〇〇人ほどの人夫が担いできたものの、大きすぎるのであろうか、運行が思うにまかせず困っている、と書かれている。この「ねぷた」が大道寺家の前を通ったのは明け方であった、と記されているので、「ねぷた」の運行は朝まで行われていたものと推定される。
 「ねぷた」運行の際には、些細なことから喧嘩(けんか)が始まった。「国日記」元文四年(一七三九)七月六日条に、石を投げ、木太刀を振って相手を打っている記事がみえ、安永四年(一七七五)七月五日条には、仲町(なかちょう)(亀甲町(かめのこまち)・禰宜町(ねぎまち)・田茂木町(たもぎまち)・田町(たまち)・大浦町(おおうらまち)・笹森町(ささもりちょう)・若党町(わかどうちょう)・小人町(こびとちょう)・馬喰町(ばくろうちょう)・春日町(かすがちょう)等を含む地域、『弘前の町並』一九七七年 弘前市教育委員会刊)と在府町(ざいふちょう)の者が、本町三丁目で喧嘩をして怪我人が出ていることが記されている。また「奥民図彙」の「ねぷた」行列の絵に「石投無」・「禁喧(嘩脱ヵ)」等の文字がみえるので、負傷者が出るなどしだいにエスカレートしていったことが判明する。
 「国日記」安永八年(一七七九)七月十一日条には、子供の「ねぷた」に藩士の子供が加わり、喧嘩・口論等になっているので、今後(1)藩士の「ねぷた」は屋敷内だけとし、門外に出ないこと(2)町人にはその町内のみ運行を許可し、木の脇差を腰にさすこと、棒や鳶口(とびくち)を持ち歩くことは認めない、とみえている。これは風紀の乱れを防止するために出された規制と思われる。
 「国日記」天保十三年(一八四二)六月二十二日条には、町人の子供の「ねぷた」に壮年の藩士および召使の者が参加し、喧嘩・口論に及んでいるので、他町への運行を禁止するとみえている。
 さらに「国日記」弘化三年(一八四六)六月二十八日条に記されているのは、大人か子供の「ねぷた」か判然としないが、壮年の婦人(身分階層が明らかではないが)が運行に参加して、風紀が乱れていることに対する規制である。このような規制が藩政後期の「国日記」に頻出してくるのは、緩んできた社会の風潮を象徴しているものといえよう。