(一)東北諸藩と弘前藩

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 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、沢為量(さわためかず)を奥羽鎮撫総督とした。総督にはそれぞれ副総督と参謀が従い、総督府を成していた。その後人事の変更があり、二月二十六日、新政府軍は、左大臣九条道孝(くじょうみちたか)を奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)に、公卿である沢為量醍醐忠敬(だいごただゆき)をそれぞれ副総督・参謀に決定した。奥羽鎮撫総督府については、さらにその後、参謀には薩摩藩士の大山格之助(おおやまかくのすけ)、長州藩世良修蔵(せらしゅうぞう)を加えて、追討軍の体制を整えた。この人事は、奥羽諸国の今後の情勢に大きな影響を与えることになる。大山は、かつて尊皇攘夷派の精忠組に属しており、世良は、高杉晋作(たかすぎしんさく)率いる奇兵隊(きへいたい)に参加し、長州藩の海軍局で洋学を修めた人物であった。この二人は、朝敵諸藩に対して強硬な態度を通し、会津征討を高圧的に強行した。よって、新政府会津藩の降伏恭順を押し進める仙台藩等との関係が悪化するのである。後に世良は、大山へ宛てた「奥羽皆敵」の密書が仙台藩の手に渡ったため、暗殺される。そして、この事件がその時の奥羽諸藩の動向にも大きな影響を与える結果となったのであった。
 三月に入って九条総督は、薩摩・長州・福岡の藩兵およそ五〇〇人を率いて京都を発し、大坂から海路奥州に向かい、仙台に入った。早速、総督府は奥羽諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。しかも前年幕府から江戸市中取り締まりを命じられ、薩摩藩邸を焼き打ちにして朝敵とされた庄内(しょうない)藩は、会津藩と「会庄同盟」を結んで奥羽鎮撫総督軍の攻撃を受けて立つえをみせていた。
 一方旧幕府側は、恭順の意を示すために、二月十二日より徳川慶喜が上野寛永寺大慈院(かんえいじだいじいん)に謹慎した。しかし、新政府軍に対抗する勢力として、同月二十三日には主に幕臣から成る彰義隊(しょうぎたい)が結成された。次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦いとなり、徹底的に両藩を攻め落とそうとする政府軍の態度に、仙台をはじめとする諸藩が列藩同盟を形成するのである。
 弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうことができなかった。また、政府からの圧力を見過ごすわけにもいかない。両者の動向を見きわめつつ、ようやく七月に至って藩論を決定する。その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩秋田藩などの周囲の動向にどのように対応していったのかをみていきたい。