討庄応援部隊の解兵

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同盟には参加したものの、征討出兵をめぐる緊張を身をもって体験していた秋田詰め藩士などは、この藩の動向に難色を示していた。
 しかし、同月のうちに、弘前藩においても奥羽諸藩と情報の交換を繰り返し、奥羽列藩同盟の動きに合わせて、弘前藩も庄内征討軍の解兵を通告することとなった(資料近世2No.五二七)。弘前藩が白石同盟の成立を知ったのは、五月一日のことであった。山中兵部とともに出張した佐藤英馬が帰藩して伝えたことによる。佐藤英馬は閏四月二十一日に白石を出立し、二十五日に横手へ到着して、秋田詰めの桜庭富蔵へ討庄応援兵の解散を指示して帰藩した。桜庭富蔵は、佐藤の指示を弘前藩の総大将山崎所左衛門や本荘在陣の松野栄蔵に連絡するなど、早速解兵手続きを取り始めている。
 そして、五月一日、総大将山崎所左衛門は、用人工藤嘉左衛門から解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「国境引上、止戦防禦之達」の情報を得て、討庄応援兵の総退去を総督府使節へ通知した(同前No.五二九)。そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。
 この間の動向はやがて国元にも広まったが、弘前八幡宮神主小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書「公私留記」明治元年五月条 弘前大学附属図書館蔵)に庄内解兵の動きをうけて、「(討庄出兵していたはずなのだが、)その後、どういうことになっているのだろうか。弘前藩兵は残らず帰藩し、藩内の関所や海岸の警備を仰せ付けられており、藩内が殊の外騒々しくなっている」と解兵に対する感想を記していた。弘前藩が同盟に名を連ねたことによる解兵なのであるが、勤皇と理解していた領内の人々に混乱をもたらしたことがわかる。と同時に、この時点で、弘前藩は勤皇を唱えながらも、その在り方をめぐって、朝命遵守か、戦争阻止かという二つの立場があり、藩のとるべき途について迷いが生じていることも明らかとなったといえよう。
 佐藤英馬より白石での情勢を聴取した弘前藩は、五月四日、藩主自筆によって今後の方針を藩士一同に示している。つまり、奥羽諸藩の同盟の成立と、これが朝廷に反抗するものではない点を強調したうえで、解兵処置は嘆願書提出のための一時的行動であるとして、諸士一同の精勤を求めたのであった(『弘前藩記事』一)。