しかし、現実は大方の予想どおりにはいかなかった。「奥羽同盟方一同謝罪ノ処より静謐、諸方官軍も追々引払、下民家業ニ有附候」(『家内年表』明治元年十月二十三日条)と日常生活を再開できる状況になったと思ったら、またすぐに異変が起こり、さらに大きな混乱が津軽領内を含めた海峡を挟む地域に及ぶ事態となったのである。
十月十七日、政府から派遣され、箱館府知事に任じられていた清水谷公考(しみずだにきんなる)から、八月に品川から旧幕府海軍を引き連れ出帆していた榎本武揚(えのもとたけあき)等が突然松前地に現れ、今にも上陸して侵略しようと箱館に迫っているという情報と、援軍を要請する至急の知らせが弘前藩に舞い込んだ。箱館詰の藩士はすでに八月二十二日に盛岡藩との対立の激化によって帰藩しており、そのこともあって、箱館警衛の備えは手薄になっていたのである。これに対して弘前藩は、家老大道寺族之助(だいどうじやがらのすけ)・山中兵部(やまなかひょうぶ)の判断で急遽木村(きむら)繁四郎以下四小隊を翌十八日に出発させた。
しかし、圧倒的多数を誇る榎本軍の前にはなすすべもなく、十月十九日から二十四日にかけて箱館各地で戦闘はしたものの、敗退して青森に逃れた。
こうして、東北地方における戦争は奥羽朝敵諸藩の降伏で終了したが、休む間もなく箱館戦争に突入することになったのである。