弘前市立図書館八木橋文庫所蔵の「晴雨日記」は別名を「万物変易誌(ばんぶつへんいし)」といい、大光寺(だいこうじ)組杉館村(現南津軽郡平賀(ひらか)町)の農民常治家が天保十五年(弘化元・一八四四)から明治五年(一八七二)まで書き綴った日記であり、その時々の村の出来事や世情、米価などが判明する好資料である。そのうち慶応二年(一八六六)(資料近世2No.二一九)と明治二年(一八六九)のもの(同前No.五〇四)が収められているが、後者には常治自身が青森に出向いて官軍の様子をみた記載がある。
明治二年四月三日、政府軍の蒸気艦「春日」・「甲鉄」以下一一隻が今度青森に集結し、近日松前表へ出撃するので、長田(おさだ)村(現南津軽郡尾上(おのえ)町)の清次郎と杉館村の三之丞、常治は三人連れだって青森に向かった。彼らは大豆(まめ)坂街道から山を越えて現青森市の高田に抜けたが、街道は諸藩の人数で充満しており、大変な混雑であった。食事をとった後、折り悪く雨が降ってきたが、雨具を用意していなかった三人は風呂敷をかぶりながら道を急いだ。青森の浜田に着いたところで夕暮れになったが、雨はさらに強くなってきた。堤村に着くと村の入口には「穀物出入御改所」との札が立てられ、道の両側には番所があり、幕が張り巡らされていて、通行人は番所の前を通る時には頭のかぶり物を取らねばならなかった。
一行はその夜の宿を探したが、浦町に村人の親類がいるとのことで、そこを頼ることとした。着いて早速宿を交渉したところ、そこの婆が出てきて、この官軍の人数のためとてもあなたがたを泊める余裕はない、あっちに行きなさいとつぶやくばかりであった。途方にくれて常治らは何もいらない、ただ軒先にたたずむだけでもいいから置いてくれと懇願したところ、亭主が出てきて何とか泊めてくれることとなったが、部屋に入ると本当に何もなく、三人は着替えもせずに短い夏の夜をまんじりともせず明かした。
翌四月四日は朝から晴天であった。目を覚ますとすぐに耳に入ってきたのは官軍諸藩の訓練の音であった。行軍の足音や号令を聞いてすぐに見物をしたくなった常治らは朝食もそこそこに外出した。町々の入口には番屋が置かれ、本町の常光寺は清水谷公考(しみずだにきんなる)の陣所で警戒はことに厳重であった。家々にはすべて本陣および筑後・松前・箱館・水戸・徳山などの諸藩の名札が掲げられており、官軍の兵士が町中にあふれていた。彼らは皆チツホ(筒っぽ)・ダン袋といった西洋式軍装で、少しも脇目をせず、操練場に向かって行軍していた。三人もその後を追って操練場に行くと、数千人の兵士が操練をしており、笛・太鼓・ラッパの音は天地に響き、驚くばかりであった。
そうしているうちに昼近くになったが、突然官軍の艦船が出帆するという噂が耳に入ってきた。常治が浜辺に出てみると、沖には蒸気船・和船が入り乱れ、たいそう忙しそうに物資を積んでいた。常治は間近で蒸気船をみたくなり、昼食も摂らずに、怒鳴られ叱られしながらも、沖に行く小舟に紛れ込んだらしい。近くで大坂丸という船に乗船すると、その船の大きさや輝くガラス・金属類に常治は度肝(どぎも)を抜かれた。船中にはアメリカ人と広東人が五、六人と、その通訳がいて大勢の郷夫や人足に指示を出していた。蒸気釜に石炭や薪を入れる者、荷物を担ぐ者、握り飯を作る者が忙しく立ち働いており、その様子は目が眩(くら)むようであった。
船から帰ると夕方となり三人で相談したら、提灯を持っていないので、夜分に街道を通ると武士に切り捨てられる恐れがあるからもう一泊することとなった。次の朝に起床すると昨日同様、早朝から操練の音が響いてきた。一行は食事を摂った後帰村したが、三日間にわたる常治らの見聞は村人たちにも当然伝達されたであろう。また、郷夫や人足に駆り出された町民や農民らが、帰郷し青森の様子や箱館の戦況を伝えたことも自然な成り行きであったろう。ましてや最前線に徴発された庶民は、恐怖の体験を喧伝(けんでん)したと思われる。「晴雨日記」は戊辰戦争に触れた庶民の驚きが率直に書き記されている貴重な記録である。