藩政改革がもたらしたもの

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明治三年(一八七〇)六月に断行された菱田重禧主導による藩治職制の顛末(てんまつ)については、先に詳しく述べたが、この改革で弘前藩士に最も直接的影響があったのは禄制の変更であった。家禄削減は高禄の者ほどその割合は高かったが、低家禄の者にはそれほど影響がなかったとみるのは事実を誤ることになる。元来、家禄二〇俵、一五俵といった階層は家計基盤が弱く、たとえわずかな家禄削減であってもそれはより大きな振幅(しんぷく)となって彼らを困窮の底に陥れる可能性があった。特に戊辰戦争前後からの度重なる借上(かりあげ)や軍金の徴収といった、さまざまな形での藩からの賦課(ふか)や、各地への出兵に伴う軍費負担、明治二年の凶作といった要素は、加速度的に藩士財政を圧迫しはじめていた。
 その具体的事例として、藩士樋口小作(ひぐちこさく)家の例をみてみよう。明治三年、樋口の役職は予備銃隊で、ここから推測すると彼の役職は御留守居組御目見(おるすいぐみおめみえ)以下支配といった軽格であったと思われる。戦後、度重なる減禄の結果、樋口家は一五俵二斗八升とされたが、三年六月の改革の結果、規定により家禄は一五俵とされた。彼には八人の扶養家族がいたが、翌四年四月まではなんとか家計は成り立っていた。予備銃隊として樋口に月一〇俵の扶持米(ふちまい)が支給されていたからである。ところが、年齢制限によるものか、彼は正規兵員に選ばれず、予備銃隊を免じられたのである。そこで、樋口家では日々の食事を粥(かゆ)に切りつめ、傘張りの内職をして糊口(ここう)をしのいでいったが、ついにこのままでは家族全員渇命(かつめい)の危険にさらされるとし、同年五月、監正署に救助を求めたのである(「諸稟底簿(しょりんていぼ)」明治四年五月二十七日条 弘図津)。
 樋口の例は特に極端な話ではなく、廃藩前後の記録には類似した扶助願いが散見される。連続的な藩治職制(はんちしょくせい)への対応は、弱者にはこうした悲惨な結果をもたらした。老齢や病弱といった理由により扶持を失った軽格階層は、弘前城下で為(な)すことなく困窮していったのである。