全国的にみると、農民は一日中暇もなく農業に励まなければならなかったので、丈夫で活動に便利な、仕立てや補修に手間のかからない衣服が要求される。それは仕事着といわれ、山着(やまぎ)・野良着(のらぎ)・タンボ着などである。その丈は腰ぐらいまでのものと、脛(すね)くらいまでのものがあり、筒袖・鉄砲袖・巻袖が多い。下衣は男は二部式で袴式の裁付(たっつけ)・軽袗(かるさん)・股引(ももひき)などであり、女は湯文字(ゆもじ)式のナカネ・腰巻を用いた。これに手甲(てっこう)(布や革で作り、手の甲を覆うもの・腕貫(うでぬき)(腕を包む布)・前垂(まえだれ)・脛巾(はばき)(外出や遠出の折に脛に巻きつけるもの)・脚絆(きゃはん)(脛巾と同じようなもの)・足半(あしなか)(草履(ぞうり)の一つ。踵(かかと)の部分がなく足の半ばくらいの短いもの)・草鞋(わらじ)がある。ただし一部の農民は、儀礼用として婚礼・葬礼・祭礼などに裃を着用している(河鰭実英『きもの文化史』一九六六年 鹿島研究所出版会刊、谷田閲次・小池三枝『日本服飾史』一九八九年 光生館刊)。
衣料についてみると、幕府では寛永五年(一六二八)二月に、農民の着物は麻布・木綿に限り、ただ名主(なぬし)そのほか農民の女房は紬(つむぎ)の着物まではよいとしたが、同十九年五月の「郷村諸法度」では、庄屋(名主のこと)は絹・ぬのあさぶ紬・布(ぬの)(麻布(あさぬの))・木綿(もめん)、脇百姓(わきびゃくしょう)(名主または本百姓(ほんびゃくしょう)〈村落における貢租負担者〉より低い階層の農民)は布・木綿とし、そのほかは襟や帯にもしてはならないと規定されている(児玉幸多『近世農民生活史』新稿版 一九六三年 吉川弘文館刊)。したがって一般の農民は、麻布・木綿の着用が原則であった。
防寒衣としては鹿・猪・熊の皮革を用い、また雨具としては蓑笠(みのがさ)を用いた(前掲『きもの文化史』)。