金木屋日記にみえる衣服

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この日記の筆録者、武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)は、弘前城下の本町(ほんちょう)で質屋・酒屋を経営し、山一金木屋の店名を持ち、城下のみならず領内でも有数の有力商人として活躍した人物である。日記を記録し始めたのは、家業の不振から弘前城下の西方賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)へ転居した後のようである。ここでは嘉永六年(一八五三)の日記にみえる衣服に関する主な記事を抜き出してみた。
 四月十八日、綿(わた)入れ(裏をつけた中に綿を入れた衣服)・袷(あわせ)羽織を着て出かけ、登り坂で汗をかいた。
 五月十七日、このごろは綿入れに襦袢(じゅばん)、道(どう)ふく(道服=羽織のようなもの)でちょうどよい。
 二十七日、昼より袷(裏地つきの着物)を着る。
 六月二日、袷を着たが暑く、午後四時ころ蒸し暑くなり単物(ひとえもの)(裏をつけない、一重(ひとえ)の和服。初夏から初秋へかけて着る)を今年になって初めて着る。
 三日、袷を着ていたが、午後二時ころより単物を着る。家族の者たちは浴衣(ゆかた)を着て仕事をしていたが、暑さに耐えがたいようであった。
 七日、弘前へ出て他家を訪ねるため、単物に羽織(きぬばおり)を着て行ったが暑かった。弘前の人は薄(うす)羽織を着ていた。そのあと、帷子(かたびら)に薄羽織で大道寺家を訪ねる。
 二十二日、今朝は袷を着ていたが、午前十時ころから浴衣に着替える。
 二十九日、午前六時すぎ大道寺家へ行き朝飯を相伴し、それから一緒に耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺、市内西茂森一丁目)へ参詣した後、友人宅に立ち寄り帰宅す。その間に汗だらけになり、と帷子を脱ぎ、単物を着る。
 七月七日、朝より浴衣を着る。
 二十五日、袷を着する。
 二十九日、明け方袷を着ていたが、午前八時すぎ浴衣に着替える。
 八月十八日、朝、綿入れに襦袢(じゅばん)、北風になり道服(どうふく)を着る。
 九月四日、綿入れを着、道服を着ても手足が冷たい。
 十一月二十五日、筒袖(つつそで)の綿入れに道服を着する。今日は平常よりも寒さが緩やかである。
 これらをまとめてみると、日常着では夏は浴衣を着ているが、春・秋・冬は袷と綿入れを気候に合わせて着していたようである。
 礼服では六月二十九日に耕春院家老大道寺と一緒に参詣した際はを着していた。それより以前六月七日には、弘前城下の他家を訪問した際に、羽織を着ており、金木屋家老大道寺や藩の重臣たちとの交流があったからであろうか、藩の衣服統制に縛られていないようである(『御用格』寛政二年二月十一日条の②〈第二条〉、「国日記」天保十三年九月十二日条参照)。