(三)住居

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 江戸でははじめ板葺の屋根が多く、の屋根は贅沢であると禁じられていたが、度重なる大火のため、享保ころ葺塗屋造りが奨励されるようになった。表側の間口(まぐち)は、町の惣年寄級の住宅が八間(はっけん)(約一四・四メートル)など相当大規模であるが、一般の町家はずっと狭く、間口二間(約三・六メートル)以内のものが多かった。江戸の長屋(ながや)は、「九尺二間」の棟割り長屋という言葉どおり、わずか三坪(約一〇平方メートル)の家に、一家族が雑然と住んでいたのである。溝板を踏んでようやく歩けるだけの路地を挟んで、数戸から一〇数戸よりなる長屋があり、便所、ごみ溜、井戸は一ヵ所にまとめられ、共同で使されていた(太田博太郎『新訂図説日本住宅史』一九四八年 彰国社刊など)。
 一般町人の家作は長押(なげし)(柱と柱とを繋ぐ水平材)・杉戸付書院、くしかた彫物、組物は無とし、床縁(とこぶち)(床の間の前端の化粧横木)・棧(さん)・框(かまち)(室の入口・窓・床などにわたした横木。または戸や障子その他器物の枠)を塗ること、唐紙張(からかみはり)付も禁止された(『生活史』Ⅱ 一九六五年 山川出版社刊)。
 藩士の住居の項で述べたように(第七章第一節三(三)参照)、寛永(一六二四~四四)末年「津軽弘前城之絵図」と慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」によれば、町人町(町屋、商人町と職人町)としては、弘前城を中心として左のような町が存在していた。
城西―荒町(あらまち)(後に新町)・本紺屋町(もとこんやまち)・紺屋町(両紺屋町は後に新町・袋町(ふくろまち)・紺屋町)

城北―亀甲町(かめのこうまち)・博労町(ばくろうちょう)

城東―大浦町(おおうらまち)(後に武家町に変化)・同下町(しものまち)・黒石町(くろいしまち)・同下町・蔵人町(後に蔵主町(くらぬしちょう))・同下町・横町(後に東長町(ひがしながまち))・上(かみ)長町(後に元長町(もとながまち))・下長町・寺町(後に元寺町(もとてらまち))・土手町(どてまち)

城南―親方町(おやかたまち)・志わく町(しわくまち)(後に塩分町(しおわけまち))・茂森町(しげもりまち)・鞘師町(さやしまち)(後に上白銀町)・銀町(しろがねちょう)(後に下(しも)白銀町)・大工町(だいくまち)(後に元(もと)大工町)・鍛冶町(かじまち)(後に本町(ほんちょう)・覚仙町(かくせんちょう)・新(しん)鍛冶町(後に鍛冶町)・銅屋町(どうやまち)

 その後、城下の形成発展とともに、多くの町人の町が出現し、また町名の変遷があったのである。
 これらの町の中で、最も殷賑(いんしん)を極めたのは本町(ほんちょう)であり、豪商はほとんどここに集まっていたということができる。次いで亀甲町(西浜方面へ)・和徳町(わとくまち)(青森方面へ)・土手町(秋田藩領方面へ)であった。