金木屋による養蚕と製織

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本町の木綿・布商人金木屋和吉(初代)は、現金正価、掛け値なしの商法を取り入れ、品質吟味、正価販売で知られていた(「国日記」享和元年七月十二日条)が、文政十年(一八二七)には秋田久保田や上州(現群馬県)の織師を招き、藩御のお召や地などを織らせた(同前同年十月十五日・十二月二十五日条)。
 また金木屋武田甚左衛門(二代目)は以前から格別養蚕に意をいていたが、文政十二年(一八二九)には秋田同様の生産を心がけ、秋田や伊達梁川(だてやながわ)(現福島県伊達郡梁川町)あたりから養蚕の指南を招き、廻郷のうえ指導にも当たった結果、の生産が増加し、藩から一〇人扶持養蚕方取扱に命じられた(同前同年十二月二十一日条)。
 「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」(弘図郷)天保元年(一八三〇)五月条によると、武田甚左衛門(当時勘定小頭格)が在府町(ざいふちょう)行き止まりの南溜池(みなみためいけ)(現市内南塘(なんとう)町)堤沿いの御地借のうえ、大造りの国産織座を建設した。在方から蚕を買い込み、女子共(おなごども)糸取り約二〇〇人を雇い入れ、また家中の次、三男も来て種々の絹布を織り出していたが、織りについては最初、秋田から上州の絹織物師を呼び寄せ指導に当たらせている。
 同じく「封内事実秘苑」天保元年六月条には、在府町の金木屋甚左衛門織座の状況について次のように記されている。「…糸取りの女子共百廿人、思い思いの粧ひ、赤襷一様に如何にもはて成風体ニ而、殊ニ夜ニ入候ニ付人々ヘ灯籠一ツ下ゲ惣而形態仰山成事之由…」とあり、思い思いに身なりをつくろい、一様に赤だすきをかけては灯籠のもと、夜半に至るまでかいがいしく働く女工たちや織場の様子がうかがわれる。