曹洞宗

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曹洞宗僧録所長勝寺であった。曹洞宗は、総持寺峨山門下二五哲により全国に広まり、その中の三派の教線が領内に及んだ。正法寺(現岩手県水沢市)三世道叟道愛は、高沢寺(こうたくじ)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)を創建したといわれ、三ッ目内(現南津軽郡大鰐町)に創建の金竜寺もこの派に属し、平川浅瀬石川流域に布教が行われたとみられる(小舘衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年 津軽書房刊)。通幻派は、通幻寂霊によって関西・関東・北陸に広まり、領内の派頭は長勝寺であった。大源派は、大源宗真によって興され、領内の派頭は隣松寺(りんしょうじ)で、岩木山麓西根に布教がなされたとみられる(小舘前掲書)。「曹洞諸寺院縁起志」(資料近世2No.四一四)によれば、隣松寺は「本寺不詳」、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、「本寺不詳、長勝寺配下」とあって、本寺は明らかではないが長勝寺に属していた。本末は図197のとおりである。

図197.曹洞宗本末関係図

 領内の禅宗寺院曹洞宗のみで、後に黄檗宗(おうばくしゅう)が加わったが、臨済宗は存在しなかった。「国日記」寛文五年(一六六五)二月二十七日には、曹洞宗関東触頭総寧寺・大中寺・龍穏寺よりキリシタン禁止の布令が藩庁を通じて長勝寺へ届けられたが、この中に「貴寺之儀、此方僧録帳ニハ無之」とあり、宛名も「津軽 長松寺」と間違っているところをみると、関東触頭には領内の本末関係が登録されていなかったようである。
 延宝八年(一六八〇)の「長勝寺並寺院開山世代調」(資料近世2No.四〇五)では、宗全寺(現青森市)が慶長年間(一五九六~一六一四)の創建にもかかわらず、この調査の僧録所長勝寺の住職善巌を開山に推して、その末寺になっているなど、本末制度を確立するためにかなり無理をしていた。