幕府のキリシタン禁圧政策が、鎖国政策によって宣教師を締め出して布教を不可能にし、国内では弾圧・キリシタン改め・寺請制度によって成果をあげた。幕府は貞享四年(一六八七)、類族の取り締まりの命令を発した。
類族の扱いで、「本人」というのは、入信した者と、入信後に棄教した転(ころび)キリシタンであり、「本人同前」というのは、転キリシタンになる以前に出生した子を指した。男女において差があった。男子は、本人・本人同前の子・孫・曾孫・玄孫までが類族となり、その後は類族を離れた。たとえば、孫が男子でその後が女子であれば曾孫から類族でなくなる。女子は、孫から類族を離れた(前掲 小舘衷三『津軽藩政時代における生活と宗教』)。
直ちに届け出の必要なものは、本人と本人同前の病死、類族の変死、駆け落ち、帰居、死罪、逃世、追放であった。二季(七・十二月)の届け出は、類族の病死・出生、新縁、住所替え、出家、改名、養子、離別、義絶、剃髪、旅行、宗旨替えなどであった。
津軽領では、元禄五年(一六九二)三月二十九日に町奉行宅へ、類族として油布宇太夫・矢野道説・蒔苗清三郎・小泉新左衛門・黒石茂吉・三好意伯の六人を呼び出しているので、類族扱いについて説明がなされたものとみる。この時、必要によっては寺社奉行が立ち会うことになっていた。類族改めは春秋二回行い、組頭を通して寺社奉行へ提出させた。同六年、「古切支丹類族帳」を幕府へ提出し、今後はその控えをもとに寺社奉行が類族改めを行うことにした。また、七月にこれまでの類族の住所替えを幕府へ届け出ているところをみると、類族の取り扱いができたのはこの時期とみられる。
津軽で最後に火刑にされた伊勢の五左衛門の曾孫のこが、元禄五年(一六九二)、瘡疹を患い五歳で病死した。この時、徒目付・足軽目付が検使となり、町年寄・町名主・月行事が立ち会い、死体は古箱に入れ、蓋を釘付にし、宝積院では住職と小僧が、位牌の前で読経し、寺まで付き添ってきた町名主・月行事が土葬するのを見届けた(資料近世2No.三九三)。
また、五左衛門が火刑に処せられた時、娘はるは寛永十一年(一六三四)出生の十歳であり、「本人同前」として扱われた。転キリシタン中田庄左衛門へ嫁し、三男三女を設け、宝永七年(一七一〇)に七十七歳で病死した。その取り扱いは幕府へ報告と指示があるため、「国日記」も詳細に記録している。医者へも療治から病死までの報告を求めた。月峰院からは、はるは歩行困難になるまで寺参りを欠かさず、先祖の法事も行っているので、宗門改めの際には寺請証文を出している旨の証言が出された。死体は、町名主・五人組・子供が付き添って月峰院まで運び、目付が見届けたうえで町奉行の手で塩詰めにした。江戸に飛脚便を立て、幕府から片付けの許可を待って、死体を掘り出して桶に入れ替えた後、引導を渡して葬式を行い、再び埋葬した。