神明宮

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神明宮(現弘前神明宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため堀越城内に創建し、信枚によって築城された弘前城内へ移転されたものとみられる(資料近世1No.一五一・同2No.四一七)。寛永四年(一六二七)、天守閣が落雷により焼失した時、御神体を背負って城の東北へ避難させた者が、後に伊勢神宮から太夫号を得た惣宮太夫であった。信枚はそこに伊勢堂を建てさせ、社領三〇石を寄進した。藩主は正月に社参するのを恒例とした。「国日記」によると雨乞い・日和揚・五穀成就の祈祷を主な役務としていた。そのほか安政二年(一八五五)には松前渡海安全の祈祷、慶応三年(一八六七)には疱瘡(ほうそう)安全の守札を藩士と領民へ配布した(「国日記」)。
 寺社奉行が直接取り扱う領内で唯一の宮で、下社家二軒が配された。神職神主号をいることが許され、五人の神職を配下に置いた。