遊説の影響

222 ~ 224 / 689ページ
後藤は、六日は青森、七日七戸、八日八戸と在地の有志と懇親を重ね、九日三戸を経て福岡(現岩手県二戸市)へ向かった。彼の来青の影響を東奥日報社の『青森県総覧』は次のようにまとめている。
伯の青森県漫遊は当日を以て終りを告げたが、其の県民に与へし印象は実に鮮少(すく)な〔カ脱〕らざるものがあった。伯は維新の元勲として赫々の声望を有し、又民選議院の建白者、自由党の創立者として著名なるに、慷慨激越の口調を以て国家の危急存亡を説き、之を救済するには小異を捨てて大同に就き一致団結するにありとの趣旨を得意の雄弁を以て鼓吹したから流石(さすが)に国会開設請願運動以来、永き惰眠を貪りつつあった我が青森県人士も漸く覚醒して昔時の自由民権思想を喚起した。その趣旨に共鳴する者続々として起り、所謂大同派なる有力なる政党を形成するに至った。

 また、明治二十一年(一八八八)四月、学術の応用を目的として政教社から創刊された総合雑誌『日本人』は、陸羯南の仲間の志賀重昂の国粋保存主義が次第に社論となり、政治評論誌の性格を強めたが、後藤象二郎が弘前の長勝寺で大演説会を開いた八月三日、第九号で次のように論評している。
想ふに青森県下にて最も政治思想に豊饒なる個処ハ弘前に過ぐるものなし、然れども弘前(津軽)の士族ハ在来暗々裡に二党派に分れて、這般(しゃはん)の二党派中にも亦幾多の小部分に分岐すと聞けり、然れども当代の日本人ハ共同の日本なり、連合の日本なり、(中略)然れば津軽所在の人士ハ後藤伯の来遊を機会とし、相共に同盟して伯を激迎し、伯の所謂旨義に同感を表示する者ハ、力めて相親睦和熟せざるべからず、然れども予輩の希望する処は此所に止まらず、旧津軽藩士と旧南部藩士と親睦和熟せんことを欲する者なり、(中略)東北の人士は些々細々たる旧来の封建的讎念を脱却して、大に日本帝国の為めに謀る処あらざる可らず、後藤伯の来遊ハ実に東北人士が共同連合するの好時機なり、機分一矢復た得べからず、諸士請ふ顧慮する処ありて可なり

 この願いは、次いで無神経事件という天佑(てんゆう)によって果たされた。
 大同団結運動で生気を取り戻した弘前の地元政治家の中で、最も有名なのは村谷有秀である。安政三年(一八五六)生まれの津軽藩士で、若くして政治に志し、後藤象二郎弘前招待の発起人となった。明治十九年二月北津軽郡から県会議員に当選した。このときの北津軽郡の四人の議員はいずれも旧津軽藩士で、のち花田一色は初代五所川原町長、小山内鉄弥は衆議院議員、弘前市長になった。
 村谷は、後藤の去った後の無神経事件で弘前の総代として青森でも東京でも活躍し、警察に徹底して監視され、行動を制限された。そして、明治二十一年十二月の通常県会で警察機密費削減問題の際、「本県警察官の」を考えると、三分の二を減ずる修正案もよしという演説をして官吏侮辱罪に問われた。このとき、小山内鉄弥は、一六四〇円の警察機密費予算をわずか一〇円に減じて、警察本部二円、各警察署二円とする案を出して驚かせていた。村谷は青森監獄署に拘留され、裁かれる身となった。
 村谷の逮捕で県会運営に問題が生じ、村谷側一六人、県側一六人となった。村谷側につく弘前勢は佐藤弥六蒲田廣出町源蔵櫛引英八長尾義連小山内鉄弥らで、反対派は鎌田政通猪股俊策阿部政太郎菊池建雄ら南郡の旧帝政派に、一戸要蔵・工藤卓爾改進派だった。議会の混乱は内務大臣への具状とまでなった。村谷の裁判も裁判管轄の問題で大審院にまで及んだが、結局明治二十二年の憲法発布の大赦によって免訴となった。