官有林盗伐の問題は、地租改正が数百年の入会権を持つ見継山、抱山を官地に編入したため、住民は薪炭の採取さえままならず、憤りやいら立ちは大きかった。事件は、腐朽する伐採跡の伐根を薪用に伐り取ることにも及んだ。『下湯口集落史』上巻(弘前市下湯口町会、一九八九年)で著者の石岡国雄は、古老から聞いた明治三十四年前後のこととして次の記述をしている。
この事件は大変大掛りなもので、一野渡・湯口・相馬・目屋に跨(また)がる国有林にそれら山下村の一野渡・大和沢・狼森・悪戸・下湯口・相馬村全域、西目屋村にわたる一〇〇〇人にも上る大規模事件であったといわれ、悪戸、下湯口では男手のある家はほとんど連座したという。
筆者の父も参加組であり、断片的に聞いたことを追憶すると、伐木の方法は、ひばの良木を選んで伐り倒しておき、土埋林として安く払い下げることを目論(もくろ)んだが、伐り倒した段階で発覚したため、木は一本も手に入れたものではなかった。しかし、村々を震撼させる大事件になったのである。
事件が発覚して警察が逮捕に来たときは、戦々恐々として騒然となったという。裁判では一審で大部分容疑事実を認め、罰金刑に処せられたが、懲役刑の者もあった。しかし、頑強に否認して一審・二審とも有罪となりながら、大審院(現最高裁)に上告して無罪となった者が一三人もいたという。筆者の父も無罪組であったが、無罪の理由は証拠不十分であった。斧・鋸等の器具を警察が発見できなかったからである。
その結末が経済的に大きな負担となって、大変に苦しむことになった。それは有罪・無罪を問わず、裁判費用、罰金支払いが貧乏な者たちの肩にかかってきたからである。金策のできない者は農地を売らねばならなかった。
一方、同じ清水村で、明治三十一年から第八師団建設工事が始まったため大発展した大字富田のケースもある。
富田から小栗山に通ずる道路沿いに、師団司令部(現弘前大学農学生命科学部)、旅団司令部(同)、憲兵隊(同)、予備病院(のちに衛戌病院、陸軍病院となり、現国立弘前病院)が富田大通りに建設され、松原通り東側(旧堀越村)には野砲兵第八連隊(現弘前第三中学校)、騎兵第八連隊(現住宅地)、同西側(旧千年村)に歩兵第三一連隊(現弘前実業高校)、清水村桔梗野に輜重兵第八大隊(現タムロンKK)が建設された。さらに、清水村大字小沢字大開(現弘前南高校、金属団地一帯)に五〇町歩、小沢と原ヶ平に跨がる館野に五〇町歩の練兵場、悪戸字後沢に輜重隊の水源池まで設けた。この壮大な施設と五〇〇〇人以上の将兵およびその家族が居住することとなった。
写真73 弘前師団通りの松原(明治末年)
これによって、沈滞しきっていた弘前の経済も活況を呈し、明治二十三年(一八九〇)の清水村の戸数をみると、富田二六四戸、小沢一六二戸、青柳一九五戸であったものが、師団設置後の大正二年(一九一三)には富田は五四二戸と倍増、小沢二一六戸、青柳二三一戸と増えた。かくて昭和三年(一九二八)、富田地区は弘前市に合併した。
旧清水村は、苦難の時代を物語る飢渇坂(けがずざか)の地名があるように、生産力の低い山里であったが、明治三十八年(一九〇五)から急速にりんご栽培が広がり、米の三倍も高い収益を得て、大原(現桜ヶ丘団地)と小沢の間にあった飢渇坂を盛土で平坦な道路に変えた。中田平次郎(陸羯南の本家)村長の大正三年九月の事で、陸橋につけられた「豊季橋」の「豊」の字がせつない。前年の大凶作の救荒土木工事でもあったろうが、村の経済力が充実してきたともいえる。