△渋茶会
小生も真理の忠僕たらんと決心して居ます。竹内兼七君等同志と毎月社会主義研究会を開きます。会の名は渋茶会と申します。(弘前市笹森修一)
(『光』第一一号、明治三十九年四月二十九日、「同志の運動」欄)
○弘前より
我等同志数名と開催しつゝありし社会主義茶話会を廃して新たに労働協会なるものを設立して、例会は毎月二日、第一月曜日、第三月曜日と決定しました。(弘前市長坂町 笹森修一)
(『光』第二二号、明治三十九年九月二十五日)
笹森修一は、明治四十年三月二十七日東奥義塾を卒業、同年秋に青山学院神学部に入学した。上京して西川光二郎グループに接近、そして、弘前出身の謎多い社会主義伝道行商人原子基や、熱心なキリスト教社会主義者渡辺政太郎と行動をともにして、貧民街のチラシ撒きなどしている。そのため、翌年青山学院を追われ、神戸神学校(長老派所属)に入学する。神戸では、同窓の賀川豊彦の神戸貧民窟伝道に協力、牧師仲間ではユニテリアン(キリストの神性を否定したキリスト教宗派)の沖野岩三郎と親しくつきあっていた。沖野は、大逆事件で死刑に処せられた医師大石録之助が所属していた和歌山県新宮教会の牧師であった。笹森修一は、この後、関西や山陰地方の教会を牧し、昭和十九年出雲市今市教会で没した。享年五十八歳、彼が弘前を去ってからも「弘前労働協会」は存在したが、自然消滅する。
一方、竹内兼七は、俳誌『渋茶』に退き、この季刊誌は佐藤紅緑の小品を掲載した「夏の号」が発禁となり、四十二年四月の「冬の号」で廃刊となった。兼七の俳号は「無為舎」で、ホトトギス派に近かった。兼七は翌四十三年五月弘前市会議員に当選、それは大逆事件の直前だった。事件の発生で、東長町の家は徹底した家宅捜索を受け、手紙・新聞・雑誌など一切が押収された。しかし、どこに隠されていたのか、『平民新聞』が創刊号から終刊号まで後日発見された。それは、現在、ほかには国会図書館にしかない貴重なものである。兼七は大正二年の市議選にも出馬したが、「国賊!」という反対派や官憲の宣伝で次点に終わった。その後も、身辺に常に監視の目が光っていたため、徹底した韜晦(とうかい)生活を送り、昭和三十二年、七十七歳で世を去った。
写真150 発禁処分となった『渋茶』夏の号(明治41年)
なお、笹森修一の弟修二も、東奥義塾中退後に山鹿元次郎によって洗礼を受け、弘前電灯会社に入社したが、明治四十三年秋ごろから新しい社会主義研究グループ「バザロフ会」の中心人物となった。メンバーは本多浩治、山崎元衛、原子基、阿部某等、七、八人で、集会場所は弘前駅の東一丁ほどの水田にある弘前電灯会社変電所だった。笹森修二は主任だった。「バザロフ」とはロシアの作家ツルゲネーフの『父と子』の主人公の名で、この主人公の虚無的思想は、当時の知識青年の間に共通していたので、全員に異議なく選ばれたという。この時代は社会主義運動の「冬の時代」と言われるが、「バザロフ会」の存在は貴重である。しかし、笹森が五所川原営業所へ転勤になったため、大正六年ごろ自然消滅となった。