青森県の農民運動

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大正十年(一九二一)十一月六日、浪岡労働組合が発足した。実態は農民組合である。浪岡・五郷・大杉・女鹿沢・野沢・富木館・常盤・十二里の八ヵ村、六百余人の組合員を擁した。組合長は武田金次郎、中央紙の販売業で早稲田大学に学んだこともあると言われる。副組合長は福士一義、常任理事は石村孝作で、ほかに幹事一五人、評議員二一人という大がかりなものだった。武田組合長は組合の精神、消費組合の内容、治安警察法の内容などを説明している。しかし、浪岡労働組合は創立総会で弾圧に遭い、解散させられた。浪岡労働組合はその意図するところを果たせず消滅したが、本県農民運動の夜明けを告げる暁鐘だった。
 大正十三年九月十七日付の『東奥日報』に「本県にも小作組合」という見出しで次の記事が掲載された。
西郡車力村大字車力は、過去に於て頗(すこぶ)る平和な村として些かの苦情も無かった所であるが、十三川原尻が次第に不良となるに従って、附近一帯の田地が塩水注入に依って収穫を減じ、本年の如きは一千町歩の水田中三百余町歩が皆無作たるの傾向を示し、農村民としては是れが救済は独り無為なる地主に委し置くべからずとし、小作組合を設置する事となり、日本農民組合関東同盟会より出版部長法学士浅沼稲次郎氏の来臨を乞い、十三日午後二時より車力小作組合発会式を行った。当日は村の休み日になって居る為に集まる者百余名、青森大沢、弘前丸尾・殿村・本多・瀬尾・鳴海の政治研究会支部員臨席して農村経営の新政策と農民の覚醒について激論する所あり、浅沼法学士は全国的なる農民運動の実情より二時間に亘り講演を為し、会員各自の熱烈なる演説ありて終始緊張裡に式を終了せるが、此の報と共に翌十四日は、対岸なる北郡武田村長泥にても農民組合を組織する事となり、同日は同じく猿賀の休日なるを以て、村民全体の大集会を催す筈であった。尚ほ同大字は岩木川治水の為め全村移転のこととなっているが、弘前政治研究会では同問題に対し世論を喚起すべく、十七日頃弘前物産館又は東奥義塾講堂に於て批判演説を開くそうである。


写真154 小作組合結成を伝える『東奥日報
(大正13年9月17日付)

 津軽西北地方が本県農民運動発祥の地となったのは、この土地が岩木川下流の低湿地帯であり、河口の十三湖の湖口閉塞と冬季の風による凶作常習地帯で生活が苦しく、また、地主の無自覚と村医岩淵謙一のヒューマニズム、弟・謙二郎の建設者同盟を通しての指導などの理由があった。もちろん新田開発で養われた農民の強烈な自立心もあった。
 岩淵謙二郎建設者同盟の盟友である武内五郎(八戸市出身、参議院議員)は、「大正十二年の夏、黒石で夏期大学にでたあと、丁度顔をだしていた岩淵謙二郎氏に案内されて、車力村にのりこみました。岩淵氏から農民組合設立の腹案を聞いていましたので、いちおう実態調査をしたかったからでした。岩淵家にお世話になって、車力村を中心に附近の農村をみて廻りましたが、あまりの実情に、青森県農民の姿としてのモデルはここだと痛感しました。」と後年述懐している。

写真155 大正12年黒石夏期大学

 この後、西津軽郡には、筒木坂、富萢などに組合が設立され、さらに南津軽郡にも金田村新屋町(現尾上町)、浅瀬石村中川(現黒石市)などで組合ができ、各地で小作争議が激しく戦われ、車力村ではメーデーも行われた。この影響はもちろん中弘地方にも及んだ。しかし、十万石の膝元の中弘地方の農民を組合意識に目覚めさせるのは至難の業だった。
 太平洋戦争後の農地解放に、清水村の農地委員として活躍した石岡彦一日本農民組合総本部へ次の手紙を出している。昭和三年(一九二八)二月のことである。
 我々の世の中は来られました。我々は、是れ我々無産農民は何時どんな事があっても、是れ我々無産農民の安定な生活に入る事は身のつづくかぎり、骨のつづくかぎり戦い、あくまでも地主、資産家をたふし、我々の生きがいのある生活に入るは、我々無産農民の実際の力によるのであります。
 我々は貴き処の日本農民組合の力によりて、我々農民は生きるのであります。小生も今後加入致しまして、我村にも組合を組織して村安定なる生活に入ると思ふて居るのである。
 小生も早い時より労働農民党として長らく働いて来たのですが、村の人等の為めにあやしい者だとか、きけんなものだとか云はれて今までいじめられて居ったのですが、今日は石渡氏が立候補してより各村の人等は理かいをい(ママ)ますて、今後の小作農民はいよいよ農民組合を組織して地主と戦ふは我々の仕事であるといふ事を知ったのでありますから、小生は大(ママ)一に農民組合に入会して我が村に組合を組織しるつもりでありますからよろしくお願ひ申しあげます。先は今後の戦いに力を願ひ致します。
労農党員 石岡彦一
青森県中津軽郡清水村大字下湯口

    日本農民組合総本部御中
 
 石岡彦一は昭和二十七年、四十七歳で没したが、小学校卒業後弘前市の宮川呉服店の丁稚(でっち)、手代(てだい)をし、仕入れの仕事で東京にも出かけており、毛筆で大文字を書く技に優れていた。下湯口の集落では昭和十年代に村の役員を何期も務め、戦後は農民組合の活動家として活躍した。