このような義務教育の面における改正は、尋常高等小学校の組織替えを促す機縁となった。大正六年、第一尋常高等小学校から改組・独立して蔵主町にあった弘前高等小学校に商業科が加設され、これが弘前商業補習学校の母胎となった。
実業補習学校の設置は、明治二十三年の小学校令によるものであったが、第一次世界大戦を契機としてわが国の産業は飛躍的に発展し、こうした社会情勢に対応するため、大正九年、実業学校令及び実業補習学校規程が改正され、これを基に、大正十一年、弘前市立弘前商業補習学校が成立するのである。男子二年制、定員一〇〇人であった。これに伴って高等小学校の商業科は廃止された。
写真189 弘前高等小学校に併設された商業補習学校(大正11年)
弘前商業補習学校(大正十四年に改称後は弘前商業補習専修学校)は、その後定員二〇〇人になったが、スポーツも盛んであった。野球部の創設は、大正十一年に誕生した弘前少年野球大会の優勝旗争奪戦と時を同じくし、第一回から三年連続優勝を成し遂げるという輝かしい歴史で始まっている。また、大正十四、十五年の弘前剣道大会では、弘中、義塾を破って堂々連続優勝の快挙を達成している。
大正七年八月、男子に先駆けて女子の実業補習学校が誕生したが、弘前女子実業補習学校がそれである。これも、高等小学校の改組により、時敏尋常高等小学校の高等科(女子のみ収容)に併設されていた補習科が母胎となったもので、本科二年、研究科二年、普通科目のほか、家事や裁縫などの家庭婦人として必要なことを教えた。
第一回生の秋山とくが、女子実業補習学校が成立したときの経緯に触れているので、その文章を引用する。
その頃私たちの学校は(中略)時敏小学校の校舎の一部を使っていました。小学校六年卒業し、更に高等科を出た人でなければ補習科へ入れない二年生の課程だったのです。当時の大人から見れば生意気だったに違いない私たちは、常日頃から「小学校補習科」という校名が気になっていました。何とか今でいうカッコいい校名にしてほしかったものです。蔵主町にある「弘前高等女学校」のように、せめて「女学校」とつく校名にしてほしいものといつでも友達と話しあったものです。(中略)私たちは「弘前市立女学校」と提案しました。しかし先生方は「本校はその設立の目的からいって、実際に役に立つ家庭婦人の養成のための特殊教育の課程であるから普通の女学校とすることはできない」といわれました。
(『開校50年・弘実10周年誌』)
結局、大正十四年四月に弘前市立女子実業学校と改称はされたが、補習科の性格は引き継がれている。