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町田市の民俗
町田市は多摩丘陵の南に位置し、現在は人口40万人都市として発展を続けています。現在のような都市として大きく変化したのは、全国でも転換期となった昭和30年代の高度経済成長期です。それまでの町田では典型的な農村風景が広がっていました。丘陵という地形を利用し畑作をよくおこなっていた地域で、麦や粟、稗、麦と米を混ぜたものなどを主食とし、米を主食として食べ始めたのは戦後になってからでした。
また市域を流れる鶴見川と境川の支流が流れ込む入り組んだ谷筋にある平坦な土地をヤト(谷戸・谷)と呼んでおり、集落としての意味もある言葉があります。このヤトが複数集まってムラが形成され、その中に生活する住民が講中という組織を結成していきました。講中は冠婚葬祭時の相互扶助の役割とともに、農業神や屋敷神などを祀る信仰集団としての機能も持つ組織です。現在でも念仏講や題目講などの講中が続けられていますが、近年では後継者不足等により廃絶する講中が多くなってしまいました。
町田の生業で近代にかけて盛んに行われていたのが養蚕です。養蚕は多摩地域全域で行われており、町田では春蚕・夏蚕・秋蚕の3回を一般的にしていました。多い家では5回飼う家もあったようです。養蚕は農家にとって貴重な換金手段として行われていましたが、昭和初期には下火となり、現在では数件の農家が小規模で養蚕を続けているのみとなっています。 かつての農村風景の多くは宅地造成の波に飲まれていき、市域には多くの団地も建設され現在のような大都市となりましたが、町田の民俗は今でも人々の生活に根付いています。