宗玩字は
江月、缺伸子、懵袋子、
赫々子等の自號がある。
春屋宗園の法を嗣ぎ玉室と共に二神足の稱があつた。(紫巖譜略)【
津田宗及の男】
津田宗及の男で、天正二年十一月生れ、小字を道丸と稱し、二歳春松と改めた。七年秋
笑嶺宗訢に從ひ、更らに改名して
宗丸と稱した。八年父宗及、
春屋を
大通菴に招請の際、始めて謁見し、やがて十年
大德寺に入つた。【才機】十二年
春屋に從ふて
南宗寺に入り、十三歳牡丹に題するの詩を賦し、其末句「十三紅是我同年」を見て、
春屋の歎賞するところとなり、
豐臣秀吉は紗衣及び紅裙一領を賞賜した。十五歳祝髮受具し、
春屋宗丸の丸を玩と改めた。十七年亦
春屋に伴はれて聚光院に入り、文祿元年七月には十九歳にして、秀吉の室、北政所の葬儀に會し、關白秀次も亦屢々召見して、寵遇頗る渥かつた。【堺に歸る】翌二年堺に歸り、
僊嶽、一凍に參禪し、慶長三年歸洛して
大德寺に入り、四年
石田三成近江佐和山に瑞岩寺を創建して、
春屋開祖となるに及び附隨し、既にして亦歸洛した。是年黑田長政德風を慕ふて外護を約し聲譽稍々熾んとなつた。十一年長政先考如水の爲めに龍光院を創立し、
春屋を第一祖とし、退老の地としたが、遷化後、遺命して之を宗玩に付した。是年字を
江月と稱した。【
大德寺住職】十五年十一月
大德寺に出生し、第百五十六世となつた。【同寺再住】十七年九月再び勅を奉じて入山し、十八年長政の創建した龍光院内に鐘樓を建立し、洪鐘一口を鑄造して之に架し、銘文を作つた。元和七年
織田信長の菩提所總見院の荒廢を修營して往住し、是年大燈國師語錄三帙を再刊した。【寸松菴開基】佐久間將監眞勝は、龍光院の南隅に寸松菴を創剏し、請して開祖とした。【崇福寺住職】九月長政の請により、筑前崇福寺に入り、第七十九世となり、塔頭心宗庵を修營し、八年二月退去した。九年長政の葬儀に莅み、秉炬拈香した。【禪師號勅賜】歸洛するに及び、高松好仁親王、一條昭長等親しく道を問ひ、
道譽益々高く、寬永二年十一月
後水尾天皇は、特に
大梁興宗禪師の徽號を勅賜せられた。四年秀忠二條城駐屯に際し、宗玩及び玉室を召見し、宗門の樞要を諮問し、答ふるところ大いに台意に稱ふた。五年筑前に下り、歸路
大通菴に入つた。(
大梁興宗禪師年譜)【
大德寺出世事件】同六年
澤庵及び玉室と共に、
大德寺出生を舊に復せん事を謀り、幕規に觸れて江戸に召還せられ、是非の詰問を受けた。(
東海和尚紀年錄)既にして同九年平戸城主松浦隆信、正宗院を龍寶の西南に建て開祖とした。(
大梁興宗禪師年譜)十三年七月將軍家光、宗玩、
澤庵、玉室を城内に召して宗義を下問した。(
大梁興宗禪師年譜、
東海和尚紀年錄)十四年隆信卒去の際には、法要の爲めに平戸に下つた。【仙洞進講】時恰も好仁親王不豫、宗玩を病床に招いて、滅後の秉炬を請はれたので、豫め不白拈公の法號を呈し、薨後供養導師となつた。次いで亦十五年には仙洞に參見して、緇門の奧祕を説いた。(
大梁興宗禪師年譜)
第四十六圖版 江月自贊頂相
第四十七圖版 江月書狀
【
大通菴創建】是より先き、父宗及、祖父宗達の菩提として、本所に
大通菴を創建し、完成を見るに至らずして歿したので、元和七年より八年に亙り、全力を擧げて竣成に努めた。(
大通菴御作事日記、茶人系傳全集)大通は宗達の道號である。(
泉州龍山二師遺藁)現熊野町東六丁に其遺址がある。斯くして亦
南宗寺第十三世として、其輪番ともなつた。(
南宗寺歷世年譜)
【
茶湯書畫】宗玩幼より
茶湯を父宗及に學び、後小堀遠州に尋ねて奧旨を究め、(茶人系傳全集)書畫共に茶家の珍襲するところとなつた。(日本書畫名家編年史卷四上、茶席墨寶祖傳考)寬永二十年十月朔日喝字四箇を書し遷化した。【墓所】世壽七十、法臘五十六。龍光院に葬つた。(
大梁興宗禪師年譜)