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人口の減少

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 松前藩が領地を返還された時期のイシカリ場所は、疱瘡の流行によって人口が激減した直後であった。イシカリ場所のアイヌの人口の推移を第一次直轄時から復領期を経て第二次直轄直後まで通してみたのが表8である。文化十四年(一八一七)は、疱瘡流行年であり、文政五年(一八二二)の数字はまさに疱瘡流行による人口激減を反映したものであろう。しかし、疱瘡流行からしばらくたった弘化三年(一八四六)にいたっても人口の回復はみられないばかりか、さらに減少の一途をたどっているのはどういうわけであろうか。文政中頃から安政元年(一八五四)の約三〇年間に、ほぼ半減したことになる。
表-8 イシカリ場所アイヌの人口(文化4~安政元年)
人口典拠文献
文化4 (1807)2,285  人西蝦夷地日記
文化14(1817)2,130余蝦夷地見合書面類
文政5 (1822)1,685蝦夷雑書
文政中頃1,200~1,300近世蝦夷人物誌
弘化3 (1846)884再航蝦夷日誌
安政元(1854)726蝦夷誌

 このようなアイヌの人口が減少した最大の原因は何であろうか。第一に、「動員されるアイヌ」のところでも触れたように、の強化などにより生活環境が悪化したことが考えられる。必要なだけの産物を捕獲さえしていればよい生活から、番人の命令によってイシカリ川の上流域に住むアイヌまで、春鯡漁時は遠くオタルナイ、タカシマ、アツタ方面へ動員された。秋味漁時は、まず和人網引場われ、その後自分持網場で漁をし、秋末になってやっと各自の故郷に帰りつき、飯料とりと軽物出産に精を出し、さらに年内中には春鯡漁に河口に下らねばならなかった。イシカリ川上流・中流域以外からも、またユウフツ出稼と称して、ウス、アブタ、シズナイ、ユウフツなど請負人山田文右衛門支配下のアイヌの人びとが大量にイシカリ場所に動員されたことは前述したとおりである。
 また第二に、このようなアイヌの動員に対して、使役をする支配人番人側が充分な「撫育」を行わなかったことがあげられる。イシカリ十三場所のアイヌが、日夜酷使を受け何の保護も与えられなかったので、アイヌの人口が減少、このため十三場所以外のイシカリ川上流・中流域のアイヌをイシカリの人別帳に入れ、使役の対象にしようとしたらしいことは前述した。この際、人別帳に入れられ、にとられるのを拒否して、トカチ方面へ逃れた例も紹介されているところをみると、イシカリ場所の使役、すなわち場所請負人阿部屋のそれが「非義、非道」なの仕方であるあまり、アイヌ側の抵抗を少なからず受けたことも確かである。
 第三には、出産率を低下させる要因が少なからず生じたことである。そのひとつに、単身赴任の支配人番人によるアイヌ女性の妻妾化の問題があった。次にそのような事例を一、二紹介してみよう。
 ①イシカリ川筋イチャンのヤエコエレの長女ペラトルカの例。ペラトルカは、シロサンという婿をとって仲むつまじく暮らしていたが、イシカリの番人寅松がペラトルカに横恋慕し、さまざまな無理難題をもちかけ、夫のシロサンを遠方の漁場に行かせ、妻のペラトルカを自分の漁場へつれてゆき、夫婦の中を裂いてしまった。このため、ペラトルカもやむをえず寅松に従い、シロサンも諦めていた。それ以来、すでに五年になるのに、寅松はペラトルカを一度も故郷に帰さないありさまだった。
 ②ベベツ(辺別)川のほとりのヤエケシュクの妻シュツチロシの例。ヤエケシュク夫婦は、仲良く暮らし、二人の間にはイルカシという一一歳の女子をはじめ四人の子供がいたが、下の子供たちが二、三歳の頃、妻のシュツチロシは番人に強姦されてしまった。このため悲嘆のあまり山中に入ってトリカブトの根を食べて自殺してしまった。
 以上は、いずれも松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』に記されている例である。同じ著者の『東西蝦夷山川地理取調日誌』には、イシカリ場所番人の妻妾にむりやりされた事例が三二例も確認できる。このなかには妊娠した女性が堕胎させられたり、また梅毒に感染させられた例も少なくない。アイヌ女性は、労働力のみならず、また性の収奪を受けたことも事実であった。
 このような出産率を低下させた原因は、この限りではなかった。結婚適齢期になっても遠方ににとられ、そのため一生独身で過ごすアイヌもまれではなかったからである。
 弘化元年(一八四四)、松前藩ではアイヌの人口の減少を心配し、①アイヌの労働力の他場所への貸借関係の均衡化、②独身者の縁組化、③支配人等のアイヌ女性妻妾化の禁止、④妊娠者の保護、⑤支配人等の非道非義の禁止を達した(天保十五年公用私用共書込日記)。しかし、その程度では歯止めになるどころか、これ以後のアイヌ搾取は、ますます強化され、以上のような人口減少をまねき、アイヌの労働力の再生産さえも困難にしてしまった。