天保十四年(一八四三)の水戸藩から松前藩への西蝦夷地の場所借用運動は、このような気運に乗じておこった。同年七月、水戸藩領大津浜(現茨城県北茨城市)の鈴木兵七は、蝦夷地のうちイシカリ場所ほか二場所の借用を水戸藩へ内願した。鈴木兵七は、文政三年(一八二〇)から天保六年まで松前で海産物を商っていたが、今度場所請負人となって魚肥を取り扱い、水戸藩の国益を計りたいので場所借受けのことを松前藩に掛け合っていただきたいと願い出たものであった。水戸藩ではこれを受けて、勘定吟味役原十左衛門を福山へ派遣して交渉に当たらせることにした(天保十四年松前御用留 函図)。
写真-5 天保十四年松前御用留(市立函館図書館蔵)
同年八月、藤田東湖の書翰を携えて福山に到着した原十左衛門は、まず松前藩士山田三川(三郎)に会っている。山田三川は、伊勢国出身の儒者で、たまたま花亭岡本忠次郎の推挙により松前藩士になった人物である。原のカラフトはじめイシカリ、ソウヤ・リシリ計三場所借用の依頼を聞いて驚いた山田は、勝手掛家老蠣崎将監、小林三右衛門に掛け合うがよいだろうと答えた。原はこの時、仲介の労をとってもらう礼として山田といま一人新井田嘉藤太に銀三枚を贈っている(山田三川 示後貽謀録 道文)。
原は、家老の蠣崎将監、小林三右衛門と場所借用について掛け合うことになった。その経過については、『天保十四年松前御用留』に詳しい。松前藩側がイシカリ場所等について難色を示すと、原はそれに代わるユウフツ、オショロ、タカシマ三場所の借用を申入れるなど、水戸藩の集めた蝦夷地に関する豊富な知識をもとに交渉を展開させていった。
一方松前藩側では、一カ条としても承諾できるものはないのに、なおも強硬に再三再四にわたって掛け合ってきたので、はなはだ迷惑だったようである。しかも、福山城下の町人のうちにひそかに水戸と通じている者もおって、機密が洩れる恐れもあり、また御三家の使者に対して落度があってはならないなどと種々心配を重ねた。結局のところ、原との数度にわたる掛け合いの結果、水戸藩に断りの使者を立てることとなり、出発の日も確定したが原の猛反対に会い、使者の派遣は中止、ついに原も水戸へ帰国することになった。帰国にあたってもなお原は、山田に蝦夷地の荷物三万石について直馳(じきば)せを許可されたい旨の書付を託した。しかし松前藩では、評議の結果一応断りの返事を送って一件落着としたかったようである(山田三川 同書)。
以上が、天保十四年の水戸藩によるイシカリほか二場所借用運動である。この借用運動の陰には、蝦夷地の産物を水戸藩領に回したいといった水戸藩領沿岸を中心とした海運業者、商人たち、それにそういった人達と手を結んだ福山城下の町人、すなわち徳次郎、勘兵衛といった船宿がいたことも事実であった。それゆえに、水戸領内の海運業者たちは、蝦夷地の場所に関する豊富で詳しい情報を多く持っていた。たまたま天保年間の蝦夷地の運上金を記した『松前西東御運上金控』(茨城県那珂湊市郷土資料集 第壱集所収)が、那珂湊の桜井家に残されている。それをみても、運上金が一〇〇〇両をこえる優良場所が少ないなかで、天保十四年に水戸藩が借用候補場所としてあげたイシカリ場所は一〇〇〇両、カラフト場所は一六〇〇両というごとく、有望場所のみをあげていたことが知られる。
この場所借用運動は、翌弘化元年(一八四四)の斉昭の失脚により実現されないままに終わった。ところで、現在石狩町弁天町の弁天社境内に水戸との関わりを今に伝える手水石二基が残されている。二基とも正面には隷書で「禮拜器」と彫られ、右側面には「弘化二年乙巳八月吉日 石工 水府港大内石可」、左側面には「願主 梶浦五三郎 湖河長左衛門 森山弁蔵 秋田屋和次郎 阿部屋林太郎 番人惣中」と刻み込まれている。石工の大内石可は『水戸市史』中巻(四)によれば、那珂湊の石工で御用石工を務めていた人物という。また、願主六人のうち梶浦は、第六章で触れたように文化四年(一八〇七)にイシカリ十三場所のうちナイホ場所の請負人であり、梶浦以外は、福山と箱館の問屋である。これらの人びとは、イシカリ場所に何らかの関係を持ったがために願主として名をつらねたのであろう。
写真-6 手水石(石狩町弁天町 石狩弁天社)
その後、水戸藩の蝦夷地開拓の展望は、安政五年(一八五八)のイシカリ改革にともない、水戸大津浜の五十嵐勝右衛門という人物が、箱館奉行所から出稼としてイシカリの鮭漁場を割当てられ、漁場開発事業に乗り出すという形で実現されることとなる。これについては、第四編で詳述することにしたい。