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依田次郎助

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 目付グループに依田次郎助という人がいる。名を次郎、次郎祐、次郎吉とも書く。彼の調査記録は、①行程の地名、休憩や宿泊所、その間の道のりを一覧にした道中休泊、②各地の見聞をまとめた道中日記、③書状からなり、まとめて『蝦夷地旅行記録』と呼ばれる。②には日記のもとになった手控も含まれるが、書名は統一されておらず、後に紹介するイシカリの記事が載る日記は『[従松前城下至蝦夷宗谷]道中休泊記』である。
 文中の蝦夷行役人連名に「[足軽伊藤附]依田治郎助」とあるから、筆者は堀の用人伊藤宗助の従者として加わったのだろう。この伊藤は堀の縁者牧氏の家来であるが、松前の生まれで蝦夷地の事情に通じているのを見込まれ、調査行にあたって用人筆頭、勘定方として出向した。依田は牧家に出入りし、アメリカペリー艦隊来航に際し、警備ないし情報収集にあたっていたらしく、伊藤と心やすい間柄だという。父は商人のようで、郷里に帰ってしまうと未知の蝦夷地に足を入れる機会が再びこないと考え、この調査団に加わる決意をしたと江戸出発にあたって父へ書き送った。
 依田の道中日記は、山、川、崎など自然地形、交通の便、家数、人数、請負人、支配人名をはじめ、住人や集落の様子、出産物、風習、伝承等を簡潔に記している。イシカリの見聞記事で注目されるのは、イシカリ川に関するもの。流路延長などの実態はつかんでいないにしても、その流域を一つの地域として考え、アイヌの社会をとらえようとしている。ほかに、箱館に立ち寄った別働隊が、イシカリで本隊とおちあったこと、法鮫大明神、妙亀大明神など祠のこと、さらに、椛(白樺)の大木と皮の利用、流木、鷲、貝石等に注目した。しかし鮭漁や元小家の様子にはほとんどたちいらず、漁業活動にふみこんだ記述はない。
 なお、イシカリ─ユウフツ間の千歳越については、帰路ユウフツの項で、「当所より西海岸石狩迄、右沼弐リ計、陸通行有て川舟通行す。石狩迄三十五リ、平地也」と書き、周囲の様子についてふれている。次にイシカリの記事を見ることにしよう。
     依田次郎助 蝦夷地旅行記録
 (安政元年五月二十日、フルビラ発。は休泊所、は岩石崎、△は川沢、○は漁家夷家村)
 一リ十八丁、海陸共同シ
休 ヲタルナイ 運上屋 城下大松前
〓  岡田屋半兵衛
  支配人久五郎
 右は御立寄、供舟一統乗替ニ相成申候。場所も随分宜敷処ニして、大舟五六十ハ掛居ル処有。但し、鯡も此辺の一第(第一)の場ニして、運上金も六百両余上ル由。二八取りも千二三百も有之様子ニ御座候事。併、夷人少シ。但し、此近辺ニ化石の出ル処有。然共、所不詳
弁天 村中有
稲荷社 同所の処ニ有之
アサリ川
レフンコトマリ 漁家多し
ヲタルナイ山 是ハ三リ計も山奥ノ高山ニして、此処より見ユル、雪多シ。但し、川も此間より流
同川 但し、ヲタルナイより此処迄二リ余
海陸同シ、二リ半余
ハルウス 右御昼可相成候処、御立寄無之
  サツボロ山 右は東蝦夷地の高山ニして、此処より凡四十里余も有之。山上に雪多し。但し、石狩迄の間、平地の野ニして山なし。東の方はサツホロ山ヨリ外山見ス
化石岩 是ハ、ハルウスより少行て海岸ノ岩なり。此岩ニ当リシ者、諸品何限らズ石と化ス。誠に奇岩ニ御座候事
シリアツカリ 漁者の家多し。此処より東蝦夷地ユウブツト申処迄、野道有。凡四十リ余有之。但し、番屋も有之。但し、ユウツ(ママ)運上屋
ヤワスケ嶽 是も東蝦夷地の山ニして、遥ニ向幽に見ゆル。雪多し
舟路五リ余、陸道七リ余
石狩 同廿日御泊。但し、朝六ツ時フルヒラ出帆ニて、任順風に此処迄弐十一リ余の間、御詰被成申候。御着七ツ半時
運上屋 城下河原町
  阿部屋伝次郎
  支配人 林(ママ)吉
但し、元小家ト云
印ハ〓印なり
運上金 千三十九両壱分
 右、石狩ハ野中ニして河の流有。甚タ大河ニして此辺ニ山ナシ。扨、イシカリ河源は数百リニして、川巾百五十間余も有之。右河上百五六拾リの間迄、夷人の住家、或ハ所々番屋有て、舟往来す。水上弐百リ計迄ハ行し者も有之候得共、従是先知る人なし。河巾も石狩より弐拾リ計上ニてハ壱リ半、弐リ余も有之処多し。川筋も箱立(館)ニ往来ス処有。則、此度箱立異国船着岸の一条ニ附、津軽三馬屋より御支配の内、御徒士目附平山鎌(謙)次郎様、御小人目附安間善之丞(純之進)、吉岡元平右三人、五月朔、三馬屋ヲ開帆仕候て、異船対談の上ニて出帆見届ケ、同廿日夜、右石狩川御舟ニて運上屋迄御着ニ相成候事。但し、箱立迄の内、山道の処も少計有之様子承リ申候事。
 右河ニ、大ヰなる鮫、主トして住居る由、暑中ニ相成候は、河中浮フ背筋を見ル人あるよし、其大サ頭より尾迄、凡拾弐三間も有之候由ニて、右鮫はあれて漁猟の差支ニ相成候故、五六十年以前より石狩の河半ニ祠立て神と祭ル。則、法鮫大明神とあかめ奉り候事。社も弐間四面計も有之、随分宜敷社立ニ御座候事。且亦、同所に大亀を祭りて、妙亀大明神と申社有。是も則、右同様と察し候得共、未タ其故を不存候。右川もイシカリにて海ニ入ル。実ニ西蝦夷地の大河御座候事
 右石狩場所は河上ニ夷人の住家多し。但し、此河ニて鱒多く取る故、運上金も高く、壱ケ年ニ壱千両余り御座候由。但し、場所ニ依りて夷人の多き処、運上金多し。右石狩ハ四方ニ山なし。砂地の野原ニして村中ニ物見の台有て、海辺の舟通路見る処有。但し、通行家も弐軒計も有之由。扨、石狩ニ椛の大木多し。前ニ記ル通、屋ね或は曲物抔にも、亦灯松の替ニ用ひ申。皮幾枚ニもヘゲ申候。誠ニ奇妙の木ニ御座候事
    同(五月)廿一日 未 晴ル 朝五時御出帆
弁天 村中有
稲荷社 同所祭社也
ホロナイ
同川の流有 但し、石狩河の枝川ニ御座候事
扨、此所ニ流木多し。但、根附の木ニして、迴り大サ成は弐間迴リ位ひニ長サ拾四五間位ひの木、或ハ海辺ニ流出ル諸材木広太ニして林の如く、都て此辺ニ流木多しと故(ママ)共、敢て取人なし。皆々朽捨ん事もおしく思はれけん
チカフセツウス  漁家夷家有之
同川有 扨、此辺鷲多く、飛抔も船中ニて見ル事度々有候事。然処、石狩辺ハ野原ニして嶮岨或岩窟抔少し。右ニ附、羽太の由。然共、夷人是ヲ取事なし
右石狩場所より弐リ余行て、モヽライト申処、右の海岸に貝石の出ル処有。是ハ貝化して石となる。但し、貝半分、石ニ化たる抔も有之、尚亦、石ニ貝の跡有之類多し。実ニ不思義の事御座候。扨、アツタ運上屋ニて、半分貝、半分石の化石、其外種々見物仕候。甚タ珍敷事
海陸共三リ余
アツタ 運上屋 〓印  
 〓 浜屋与右(ママ)衛門
支配人 林(ママ)蔵
右は御立寄、供船一統乗替相成申候事
フヨヤシリ 漁家夷家有
チヤラシナイ 滝有。右此処、岩上より流落ル滝有。随分宜敷滝御座候事。但し、此処チヤラシナイ崎ト云
コキヒル 漁家夷家有
フイヲマシリ 同断
アイカツフ崎
(後略、この日マシケ泊)

(北海道大学附属図書館所蔵本による)


 右の日記のもとになったらしい手控には、ほぼ同内容の事柄が箇条書きされており、浄書の際はぶかれたが注目される分をここに拾っておきたい。
 一、右の「サツボロ山」の記事は理解しにくいが、手控には次のように記されている。「ヲタルナイヨリ石狩迄の間、右手の方壱方平野にして、東蝦夷サツボロ山遥に見ヘル。凡四十リ計の間、野原の様子御座候事。通行も出来申候の由。但、東エソ[ユウブツ会所]四十リ計、間に番屋有て、御泊りも相成申御座候」
 二、石狩川の川幅を「凡百間余」とし、深さは「数十丈」、源は「凡弐百六七十リ計にして、百五十リ計の間迄は夷人の住家も有之、通路有之候得共、百リ計より先は知る人なし」と、さらに、「此川筋に住居申候夷人は甚た人に合ず」という注を付している。
 三、法鮫大明神、妙亀大明神の祠について記した末尾に「右の外、弁天社有」とある。
 四、物見台の記述につづけて「村も随分宜敷家立の家七八軒計も有之」と記す。
 五、さらに浄書文にはみられないが、次の記述がある。「一、フルヒラより船に乗送り来る人、二八に参り居候由、江差住津花町仙台屋万右衛門」と。