第二にあげているのは「場所世話方も不行届」のためだという。部外者が場所世話方で最も関心をよせるのは旅中の行路や休憩宿舎の便否ではなかったろうか。旅人の道案内、船馬の継ぎ立て、休息や宿泊、公文書や金銭の伝送等すべて請負人の責務とされ、長旅の疲れを癒すには元小家、通行屋、小休所の施設設備、食事、応待が欠かせない。阿部屋のイシカリ場所運営は閉鎖的で、和人の漁業進出を極力排除し、幕吏や諸藩士の場所内通行を快く思わなかったから、旅人応接はおのずと手抜きとなる。
イシカリからソウヤ方面へ旅する人が陸路によると、翌日の宿はアツタだが、旅人はそこで両場所の応接の差を身にしみて感じたようだ。森一馬は「諸事丁寧に賄もよし」とアツタ運上屋をほめ、成石修輔はアツタ場所支配人を「いと信実なる人にて、こゝろ慰たり」と称えている。それだけイシカリ場所の世話方が行き届いていなかったことになろう。イシカリ場所の不行届は、場所が広く内陸部にひろがり、産業は秋にのみ片寄っており、経営が困難なうえに、請負人の肩にかけられた仕事は大きく、請負人にとってむずかしい場所だったことにもよる。阿部屋の責任のみではなかった。
不行届の例をあげると、海岸通りフンベムイに設けた小休所はアイヌの老夫婦に任せきりにして援助をせず、その夫は足を痛め歩行がままならず、妻は病気で寝たきりで、自分たちの食事すらおぼつかなく、旅人が休憩に立ち寄っても、囲炉の薪すら拾い集められなかったという。また、箱館奉行所雇松浦武四郎は上川からの帰途ツイシカリ通行屋に一泊を申し出たが、元小家から連絡がないので食事は出せないと断り、寝るだけならしかたがなかろうとの返事。やむなく武四郎は近くのアイヌから夕食用の魚を恵んでもらい、下流のヒトエ小休所まで下って泊った。奉行所の公的用務で旅する人への世話方でさえこうであったから、私人の旅がいかに困難をきわめたか想像できる。
当時、阿部屋の不手際として箱館奉行から強く指摘された一つに、銭箱~トヨヒラ~千歳を結ぶ内陸道路開削の粗雑さがある。そもそも新道開削を場所請負人の私力に依存する方針に問題があるとはいえ、同条件のもと隣接する各場所で施工された開削事業と比較し、阿部屋が担当した道路はきわめて粗雑であると非難をかった。もっとも、アツタ~ハママシケ~マシケの山道について「かゝる開き方にては開かざるも同然なり」(玉虫左太夫 入北記)という厳しい評価はある。それでもマシケ場所では盛岡藩から五〇人ほどの人夫を雇い、また漁業の暇な時は漁夫を動員し「壱人極上十二両、中男十両、並八両と取定め、六月十三日迄五十六日の間に仕舞候」(松浦武四郎 丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)というように、場所請負人は巨費をこれに投じ多大の犠牲をはらったのである。しかし、阿部屋の安政四年勘定帳(決算報告)には新道開削の費目は見あたらない。場所経営の仕込み物の中に工事用具や食糧費が含まれているのだろうが、費目として取り立てるような金額ではなかった。すなわち、新道開削にさほどの金を要しなかったわけで、おそらく漁業の暇をみてアイヌの労役により、いたって簡易に刈り分けた程度だったと思われる。その結果は村垣奉行をして「イシカリ持の新道甚麁にして不宜」(公務日記)と嘆かせ、阿部屋の場所世話方手抜きの例証となったのである。
さらに、安政四年ハッサムに在住とその引き連れてきた農民が入地すると、生活物資の唯一の供給源である阿部屋は、売価を一斉に値上げした。堀奉行がアイヌに農業を勧めようと阿部屋から鍬を買って与えたが、その一挺は七〇〇文、それがトママイで買ってみると三〇〇文だった。「万事朝夕の事は不自由相懸、困らせ候様の仕向のみを致し居候」(燼心餘赤)という非難が阿部屋に集中的にあびせられようとしたことに注目しなければならない。