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養蚕施設と桑園

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 安政六年(一八五九)南部藩士が幌別で養蚕を試みたといわれるが、明治三年開拓使少主典河辺盈徳が蚕種を仙台で購入し、山桑を採取して札幌ではじめて養蚕を行い、この時は成繭一石八斗を得たという。官では四年正月に棋楠樹(いちい)など六木と共に桑樹の伐木を禁止し、札幌郡内町村役人に達し、同様に翌二月二十五日には「養蚕ハ御開拓ノ一端ニ候間、開墾ノ余暇ヲ以テ養蚕致度者ハ願出次第御下渡相成候条、一同可心掛事、右ノ趣農商ニ不拘無洩可觸示者也」(開拓使布令録)との布令を発し「農商ニかかわらず」とまで言って養蚕奨励の意を示した。
 同年三月早くも丘珠村養蚕室を建て、岩鼻県(群馬県)から教師二人を雇い、陸前・磐城から黄白二種の蚕種を購入し山桑によって飼い、繭一〇石を得、種紙五〇〇枚を生産して東京などに売った。この年苗穂村でも移民が養蚕を試みた。以後も連年札幌郡内各村で養蚕及び蚕種製造が行われた。種紙を先進各県に送って品評をうかがったがその評価はすこぶる低かった。
 七年五月丘珠村蚕室を廃し、創成通旧本庁内に仮蚕室を設け、女性の志願者に業務を教えた。同年中、白石村移民の少女三人を群馬県富岡製糸場へ、札幌その他の女性二五人を同県水沼村の星野長太郎製糸場へ製糸伝習のために派遣した。八年には浜益通(北一条西九丁目辺)に群馬県島村の模範的養蚕室の様式を採った蚕室を建て、移民の男女、屯田兵家族等五〇人を養蚕に従事させた。九年には入植早々の琴似・山鼻両屯田兵村にも養蚕室を設け、屯田兵の授産をはかった。
 一方で野蚕の飼養試験も行った。十年中、浜益通・札幌養蚕室の西北三〇九〇坪余を野蚕試験場とし、槲(かしわ)など数千株を移植し、また播種をした。その後も年々府県及び清国の蚕種を購入して試育した。

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写真-4 札幌養蚕室(北大図)

 開拓使養蚕関係規則はきめ細かく定められている(市史 第七巻)。まとまったものとして八年四月布達の「養蚕成繭条例」一七条、九年五月布達の「養蚕条例」(十一年十一月改正)五条、十一年八月布達の「野桑保護仮規則」一〇条などがある。これらによれば、村々に養蚕世話役を置いて官の方針の浸透をはかり、「養蚕の資料」としての桑樹の保護繁殖に力を入れたことがわかる。「野桑保護仮規則」によれば、管内に二九の「摘葉区画」を定め(たとえば第二区は円山村山鼻村、第一八区は虻田郡、有珠郡、第二九区は天塩国六郡など業務の粗密によって区域が定まる)、養蚕世話役に監護と巡視を命じ、摘桑者には免許鑑札を受けさせた。また養蚕者に布令し、各自に桑園を設けさせ費用を貸すこととした。
 養蚕奨励策のもう一つの軸は、桑の良種の移植と繁殖に置かれ、その対策も札幌が中心となった。明治七年、福島・置賜・熊谷の諸県から桑苗数百種を購入していったん本庁構内に仮植ののち、翌年「虻田通一番官邸」に移植した。八年六月、桑苗一四万株を酒田県から購入し、同県内松ケ岡で開墾の経験をつんだ士族二〇四人を招いて、その内一四三人(他の六一人は道南の大野村へ)が札幌におかれ、開拓使本庁西北の原野二一万一〇九四坪を開いて酒田桑園と称した。これが現在も残る桑園という地名のはじまりである。
 十年五月、浜益通に桑苗試験園を設け各種の桑苗を植え、また肥料や生育の試験を行った。十一年、酒田桑園を改めて第一号桑園と名付けた。十三年には上白石村に群馬県産桑苗一万四〇〇〇株余を植えて第二号桑園とした(現菊水元町の菊亭農場跡の東南、上白石神社の裏手付近)。また八年には福島・置賜二県から桑苗四〇万株を買入れて琴似・山鼻両兵村栽植の準備を行い、またその中から管内各村へも下付した。一方では風土の違いから枯れる苗も多く、その補植のため各種の桑苗移植を試み、園地の拡大をはかるなど、官の桑園育成の努力は大きかった。そのため札幌市街の周辺は一大桑園地帯の観も呈したが、その後も続けられた奨励策の割には、新しい気候風土や開拓地農業の中にとけ込むことは容易でなく、所期の成果はあがらなかったようである。