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市中の商い惣高調

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 明治五年十月の戸口調査に次いで、翌六年一月から六月十五日までの市中商い高調べが行われた。それによると次のようになる。
市中商い戸数五〇八戸。
その内料理屋二三軒、商高合計金五七二一円八四銭。
旅籠一六軒、商高合計金二八一六円八〇銭。
貸座敷二八軒、商高合計金二万三一七四円七四銭。
荒物渡世一八〇軒、商高合計金一万六六五六円一厘五毛。
酒屋、豆腐屋、湯屋、古物屋、濁酒屋、八百屋、菓子屋、味噌屋、乾物屋、煮売屋、餅屋、五十集、
附木屋、染物屋、鍋屋など六八軒、商高合計金五五八四円二厘一毛。
大工土方其他諸請負者一四軒、取揚高合計三万八八六円一九銭。
木材杣子、大工、左官、石工、鋳物師、銅職、鍛冶職、仕立、髪結、土方諸職人合わせて一七九軒、
取揚金合計一万九四八円九五銭五厘。
(市民商業惣高取調 市史 第六巻)

 これら商戸について、松本大判官は「札幌市中景況」として、業種別による一カ月の平均所得高を計算している。それによると、料理、旅籠、貸座敷渡世は売上の三割五分を所得と見積もって、一戸平均一カ月の所得金二九円六七銭八厘余。荒物、酒屋、豆腐屋、湯屋、古物屋、濁酒屋、八百屋、菓子屋、味噌屋、乾物屋、煮売屋、餅屋、五十集、附木屋、染物屋、鍋屋は三割の所得と見て、一戸平均一カ月所得金四円八九銭二厘。大工土方其他諸請負者は一割五分の所得と見て、一戸平均一カ月所得六〇円一六銭七厘余。木材杣子、大工、左官、石工、鋳物師、銅職、鍛冶職、仕立、髪結、土方など職人は六割の所得と見て、一戸平均一カ月六円六八銭二厘余と計算している(札幌滞在事務取扱備忘誌 松本家)。
 なおこの五〇八戸の商戸の内、貸家、間貸し、札幌以外への出稼ぎなどを調査した「家作貸渡并割貸同居他出取調書」(市史 第六巻)があり、八〇戸について記載されている。しかし木村万平伊坂市郎右衛門宮辺長七木村伝六石川正蔵そして建築請負の水原寅蔵らの売上については記載がない。これら開拓使用達として、売上が確認されていたからと思われる。
 『市民商業惣高取調』の中から二、三例を拾って、当時の商いの実況を見ることにする(なおこの売上高は全て六年一月から同六月十五日までの合計である)。
 用達木村万平らが札幌に来て、はじめは遠藤清五郎宅(南一西四)で店を営む。次いで南一条東一丁目に新店舗を開く。しかし手代らはなお遠藤宅に同居して商いを続け、遠藤の名で二二九四円の商高を上げている。南一条西一丁目で旅籠をしていた清水利右衛門は、火事にあった木村伝六に店を貸して同居し、一二六円の貸賃を得ていた。なお旅籠屋菅原治左衛門は、薄野で貸座敷業を営む息子の連之助方に同居し、五三円の家賃で店を新田貞治らに貸している。貸座敷業では、連之助が一二八八円三〇銭、中川良助が四二三二円五七銭、田中重兵衛が七五四円五五銭を売上げている。旧本陣の賄い方をしていた高木長蔵は、旧本陣の払下げを受けて料理業を営み、九七二円九〇銭の売上がある。札幌ではじめて胆振通で湯屋を営んだ(南一西一)とされる小川万次郎は、農業見込で発寒村へ移り、旅籠を営む藤田市右衛門らに店を貸した。藤田らは小川の名儀で旅籠を営み、一二七円六〇銭の売上があった。建築請負人では、中川源左衛門は四二七一円一九銭、福原亀吉は一二三〇円、大岡助右衛門は五〇〇〇円、土木請負の吉田茂八は九〇〇〇円の売上を記録している。なお松前商人として来た奥泉清吉は、はじめ東創成町(南三西一)で太物雑貨の店を開く。ついで御用達木村万平の所に借地して、用達三店の東隣で太物の店を開き三三〇円を売上げている。