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篠路村と早山清太郎

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 札幌市域に村々が成立したのは、幕末の時期にさかのぼる。その成立をみると第一は幕臣たちが在住として農民をひきつれて入地し、形成された村である。第二は箱館奉行所が設置・経営したイシカリ御手作場により形成された村である。第一の村には、在住ではないがイシカリ役所調役並荒井金助が万延元年(一八六〇)頃に開いた荒井村、その南隣に在住中嶋彦左衛門の中嶋村がある。これらは本来的には在住が領主となる知行地であったろう。中嶋村は文久二年(一八六二)に中嶋彦左衛門が退去したことにより荒井村に吸収されたが、慶応二年(一八六六)頃までにはシノロ村と呼称されたようである(市史 第一巻四編九章)。
 荒井村、シノロ村には村役人も任命されていた。設置の年代は不明であるが、『荒井金助事蹟材料』(道文旧記一四三七)には、名主百姓代農夫取締の村役人がいたことが記されている。近世の村役人は村方(地方(ぢかた))三役と呼ばれ、村の総責任者となる名主(庄屋・乙名(おとな))、補佐役の年寄(組頭)、農民の代表者となる百姓代がおり、領主の行財政(支配)と村落自治の媒介の役割をはたしていた。もともと「村」は、領主に租税を貢納し夫役を負担することで設置された。それに準じた場合は「村並(むらなみ)」とされたが、札幌周辺におかれた村はこれらに該当せず、在住の開墾地と人別支配の区分として便宜的に呼称されたようである。
 シノロ村の戸数は、明治二年(一八六九)で人家二八軒(山田民弥 恵曽谷日誌)とされ、四年の人別帳(札幌郡篠路村人別調 道文三一八)によると、明治以前の移住・居住者を示す「在来」が、やはり二八戸とされている。幕末から維新の変転期にかかわらず、多くの農民が離村せず残っていたことがわかる。シノロ村は二年八月二十日に、サッポロ村と共に兵部省の管轄下に入る。しかし開拓使との軋轢も多く、兵部省の支配は翌三年一月八日で終わるが、四月に作成された『兵部省引継書類』(道文一八三)に、シノロ村名主(渋田)畑六が「篠路村農夫」の拝借米二五俵の代金五六両余を六月まで、同じく名主(森山)兼松が五俵分の二九両を十月まで延納を請願しているように、兵部省の扶助も農民の定着にあずかったようである。

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写真-1 明治4年の篠路村と伏籠札幌川
この頃は札幌本府への玄関口として物資の集散地の役割を果たしていた(北大図)

 ここで名主は二人みえるが、荒井村の時期にも名主が三人おり、しかも「順番」でつとめていた形跡がある。畑六と兼松の二人の名主も、前代のあり方を引き継いだものかもしれない。
 シノロ村の農夫取締などもつとめ〝札幌の開祖〟とされる早山清太郎は、明治に入ってからもこれ以降、種々の方面で活躍する。彼の幕末の動向についてはすでに前巻で触れられているが、明治期の経歴・治績の主なものをまとめると以下のようになる。
   二年 十月 開拓使用達を申付け。
     十一月 御宮地(札幌神社)所幷開墾新道其外掛に申付け(開拓使掌に任、三年四月まで)。
   三年 五月 篠路村御蔵守に申付け。
   四年 七月 篠路村名主に任(五年七月まで)。
   六年十一月 新道開削(篠路村より花畔村まで)につき、開拓使より金一万疋を下賜。
   七年 三月 村内一八丁の道路を自費開削につき、開拓使より銀盃を下賜。
   八年 一月 篠路村蔵守を申付け。
      五月 駅逓取扱を申付け。
   九年 五月 「開墾方第一等勉励」につき、開拓使より褒賞。
  十三年 八月 五等郵便局取扱を申付け。
 早山清太郎はこの他、各所の道路開削の請負、教育所の設置などに尽力し、褒賞を受けることも度々であった(清太郎の経歴・略伝については『札幌百年の人びと』、『北海道開拓功労者関係資料集録』上巻、君尹彦編『早山清太郎をおって』参照)。