養蚕ハ民間第一ノ恒産ニシテ幸ヒ当地ハ天然ノ桑樹多ク養蚕相応ノ土地柄ニ候得共、イマタ十分ニ手ヲ下シ候者無之、本年ハ市在ノ内僅ニ施行候者有之候処、間ニハ繭糸ノ運ヒ付兼憂苦イタシ候者有之哉ニ相聞、右者官手ヲ以横浜表ニ於テ売捌方御世話被成下、即今右凡積代価ノ内三分ノニ繰替渡置、追テ売捌ノ上積算相立、残金下渡可遣候条、出願ノ者ハ民事局エ可申出事右ノ趣区々エ可触示者也
明治六年八月七日 松本大判官
上繭壱斗ニ付 代価壱円九十銭
中 同 代価壱円七十銭
明治六年八月七日 松本大判官
上繭壱斗ニ付 代価壱円九十銭
中 同 代価壱円七十銭
(市在諸達留 北大図)
ここにも見られるように、養蚕には桑苗の仕立方から販路の開拓まで府県及び開拓使が深く関与してきたが、これと似た事情は工芸作物の内とくに養蚕の奨励としばしばセットになって奨励指導された麻作の場合にも見られた。それがもっとも組織的に行われたのは屯田兵村であったが、一般農村でも、たとえば白石村佐藤孝郷によれば「十二年十一月本庁に主なる移民の代表者を集め、其風土地質に適せる農産物にて産業を興さんことを以てし、白石村に於ては養蚕製麻を主とぜよと指示せり」とあったようにである(白石村誌)。
白石村(上白石・白石両村)の養蚕製麻の比重は、開拓使時代の最高値では十四年の収繭高四一石余、価格一二八八円余、同十三年の麻収穫高七〇石(価格一貫二円とすれば一四〇円)とあり、養蚕がまだ麻を圧倒していた。しかし明治の後半になると養蚕は統計から姿を消し、その代わりに大麻が亜麻となって次第に主産物の一つに成長する。養蚕、製麻ともに移民の出身地での農事体験に適合していたはずである。養蚕の衰退について『白石村誌』は、気候が桑園に適しないこと、他に有利な産業が振興してきたことなどをあげている。
麻には大麻(たいま)、苧麻(からむし)(葈)、莔麻(いちび)(黄麻)、亜麻(あま)などの種類があり、それぞれ生産・加工について外国種も含め官園等で試験が行われたが、この時期の作付の中心は大麻であり、他は部分的に試みられていたにすぎない。
『開拓使事業報告』第三編によれば、札幌本庁の項に「明治四年正月麻培養人ヲ下野国河内郡ヨリ招募ス」とある。また七重勧業試験場(官園)の項にも「明治四年下野国川(河)内郡田野村ヨリ種麻ニ熟スル者二名ヲ雇ヒ、種子及剥製器械等ヲ購シ栽培セシニ、地味ニ適シ伸暢七尺余ニ至ルモノアリ」とあって、同一人の招請かと思われるが、同じ函館支庁の同年七月の項に、雇教師米人トーマス・アンチセルの建議から「農産ヲ興スハ日用品ヲ首トシ貿易品ヲ次トス、故ニ先ツ麻及亜麻ノ類ヲ植ヱ以テ網具ヲ作ルヘシ、北海道中央諸郡ハ自生ノ麻種夥多ニシテ且気候ニ適ス、宜ク函館札幌ニ網具製造所ヲ設クヘシ」との言を引用しているので、同年を期に開拓使の本格的な麻作奨励がはじまったことがわかる。
四年十月には平岸村産出の麻苧(あさお)(麻の繊維から取った糸)若干を東京に送りケプロンに品評させている。以後年々、産物の買上や技術指導を行ったことは他の主産物に劣らない。十一年札幌本庁で麻種六九石余を栃木県より購入して各郡に頒布したなどの記事もあるが、そのほかにも年々栃木・新潟両県の種子を購入し郡村に売下げた。十二年には米国、仏国、白国(ベルギー)の麻種が山鼻・琴似二村ほかに下付され、好結果を得た。また、十三、四年には丘珠村清国帰化農夫范永吉らが製造した莔麻の試験を横須賀造船所に託して製網、製綱に適する結果が得られた。
こうして麻作は札幌郡内大部分の村で行われ、その収穫価額も村によっては基幹作物の一つに匹敵するものになっている。