火薬庫は両兵村共用のものを九年四月に詰所とも一四三九円余を投じて円山村藻岩山麓(現中央区旭ヶ丘)に設置、翌年さらに屯所を建て外囲いを施し門を設け棚矢来をつけた。銃器庫も共用で開拓使本庁構内に十年一五二八円余をかけて新築したが、軟石建築とするかどうかもめて結局費用節減のため木造となり、同年銃器修理のための磨所も工作場構内に新築した。
当初の装備について『屯田兵沿革』には、七年「米国其他ヨリ、カツトリンク砲四門、エンピール銃千六百挺及実包ヲ購入ス」とあり、同八年「募集兵ノ数ニ応シ各自ニ、エンヒール銃下付アランコトヲ請フテ許サル」、九年「琴似山鼻兵員、エンヒール銃ヲ下附シ、射的演習ヲ施行セシメ、其弾数ハ時ニ之ヲ定ム」と述べている。このエンヒール銃は筒先から玉をつめ込む旧式なもので性能もよくなかったらしく、漸次レミントン銃に取換えられ、さらに日清戦争時はマルチニー銃を用いるようになった。屯田兵の兵器としてはこれが唯一のものである。このほか幹部や週番所用にピストル、室内銃、スナイトル銃等があった。大砲は官船に備えつけたガトリング砲のほか・開拓使庁舎にフランスホード怱砲、メリケンホード怱砲があり、六角砲、ロケット等もわずかに備えられていたが、もっぱら時報や非常信号用に使われ、実戦に用いられることはなかった。
屯田兵の服装については八年五月、鎮台の規定に準じ左肩に五星の北辰章をつけると定められた(開拓使禀裁録)。とはいえ日常農作業に従事するので練兵時も「服装ハ平常之通リニテ不苦候へ共、筒袖股引着用可致」(屯田兵村廻文控)よう指示され、作業のしやすい軽装が奨励された。ところが西南戦争に出兵してみると、応急支給した屯田兵の服装の不揃いが際立ったようだ。制服は着ているが下駄ばきに傘を下げて歩いたり、軍帽をかぶり私服であったりと、陸軍省の幹部をいらだたせ、開拓使に定規にそった制服装備を強く求めてきた。開拓使の言い分は、屯田兵の経費はあくまでも殖民費で授産のためのもの、養兵の費ではないから銃器制服等はひと通り具備していればよいとする。とはいえ十三年から新調して公式行事に着用を義務づけたが、靴は夏草鞋、冬わら靴(つまご)が一般的だった。新調服の評判はいろいろで、特にズボンが白黒の霜降りだったからハイカラと感じる人もいれば、日清戦争時に敵国の捕虜と間違えた人もいたという。兵農両立する服装を試行せざるを得なかったのである。
写真-10 屯田兵の制服(札幌市山口龍夫氏蔵 琴似屯田百年史より)