表4は十一年から十九年までの九年間における府県ごとの移住者数を示したものである。ここには移住に際して開拓使及び札幌県から渡航費を下付された戸数と人員(家族数)がまとめられている。渡航費の下付を受けるのは入地先が決まり本籍を転籍した者のみで、寄留者は下付を受けられなかった。それゆえ自費で来た寄留者も多数おり、全移住者数を示しているものではない。ただ府県別の移住状況を知る上では十分参考となるデータである。
表-4 諸村への県別移住者数 |
府県名 | 明治11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 合計 | ||||||||||
戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | 戸数 | 人員 | |
青森 | 戸 | 人 | 1戸 | 5人 | 1戸 | 8人 | 戸 | 人 | 1戸 | 4人 | 戸 | 人 | 1戸 | 4人 | 3戸 | 13人 | 1戸 | 2人 | 8戸 | 36人 |
岩手 | 1 | 5 | 1 | 5 | 1 | 1 | 2 | 7 | 9 | 36 | 14 | 54 | ||||||||
宮城 | 1 | 11 | 1 | 7 | 2 | 7 | 4 | 25 | ||||||||||||
秋田 | 1 | 3 | 2 | 4 | 1 | 2 | 4 | 9 | ||||||||||||
山形 | 3 | 6 | 3 | 8 | 1 | 1 | 4 | 20 | 4 | 21 | 8 | 37 | 23 | 93 | ||||||
千葉 | 1 | 2 | 1 | 2 | ||||||||||||||||
東京 | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
神奈川 | 1 | 4 | 1 | 4 | ||||||||||||||||
新潟 | 2 | 9 | 2 | 2 | 2 | 2 | 3 | 12 | 1 | 4 | 10 | 29 | ||||||||
富山 | 3 | 11 | 3 | 14 | 6 | 25 | ||||||||||||||
石川 | 2 | 3 | 2 | 12 | 4 | 15 | ||||||||||||||
福井 | 4 | 8 | 13 | 68 | 53 | 229 | 70 | 305 | ||||||||||||
長野 | 8 | 39 | 7 | 23 | 15 | 62 | ||||||||||||||
愛知 | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
兵庫 | 1 | 3 | 8 | 32 | 9 | 35 | ||||||||||||||
鳥取 | 1 | 5 | 1 | 5 | ||||||||||||||||
岡山 | 26 | 62 | 26 | 62 | ||||||||||||||||
広島 | 15 | 69 | 65 | 282 | 39 | 191 | 13 | 66 | 132 | 608 | ||||||||||
山口 | 10 | 18 | 6 | 16 | 48 | 191 | 32 | 138 | 17 | 96 | 113 | 459 | ||||||||
徳島 | 2 | 10 | 4 | 26 | 6 | 36 | ||||||||||||||
福岡 | 39 | 156 | 37 | 82 | 26 | 118 | 102 | 356 | ||||||||||||
合計 | 7 | 17 | 2 | 10 | 4 | 16 | 3 | 10 | 86 | 283 | 70 | 203 | 129 | 524 | 132 | 619 | 118 | 540 | 551 | 2222 |
明治11~14年:『北海道事業報告』移住給与表.15~18年:『札幌県勧業年報』移民給与表(15年は7~12月分).19年:『第1回北海道庁勧業報告』移民給与金数. |
この表によると九カ年の間に、五五一戸二二二二人の移住がみられた。しかし明治三、四年や二十年以降に比較すると決して多い数ではない。特に十一年から十四年の開拓使の末期は、まったく移住が停滞していた時期であることがわかる。移住が活発となるのは札幌県となった十五年以降である。
府県の中で移住者を多く送出しているのは、広島県(一三二戸六〇八人)、山口県(一一三戸四五九人)、福岡県(一〇二戸三五六人)、福井県(七〇戸三〇五人)の四県であった。広島県の場合、月寒村字輪厚への移住者が半数ほどしめる。ここは二十六年に月寒村から分かれ広島村となる。広島・山口・福岡の三県移民の入植地はすでに前述したが、いま改めて略記すると、広島県は山口村では現手稲区稲穂、上手稲村では西区西野、平岸村では南区簾舞が主な所である。山口県は山口村、上手稲、下手稲に集中し、篠路村にも一部入植している。福岡県は開墾社が篠路村で現北区福移、報国社では月寒村で豊平区里塚、平岸村では南区澄川に入植している。
福井県は十八年に一三戸六八人、十九年に五三戸二二九人と急に増えている。福井県出身者は一村に集中しておらず各村に入っている。いずれも農業を目的としており、十九年に一〇戸が入植した苗穂村では、「能ク農事ヲ勤ムルノ状体ナリ」と報告されている。(市史 第七巻二八九頁)。
その他表4から気付かれることは、戸数は僅少ながらも岩手・山形・新潟県の出身者が連年にわたりみられることである。これは庚午・辛未移民による呼び寄せによるもので、移住のネットワークが形成され、連鎖的にあと追い移住が続いていたことを示している。十五年の岡山県二六戸六二人は、月寒村の現豊平区清田へ入植した団体であり、十五、六年の長野県一五戸六二人は開成社によるものである。
以上の札幌市域の移住動向は、徳島県からの移住者数が低いことを除けば、全道的な傾向とほぼ合致するとみられる。北海道庁が設置された十九年以降になるとこの傾向は変化してくる。西日本の広島・山口・福岡県は、北海道移住から海外移民へと動態に変化をみせ、北海道移住は今度は新潟・富山・石川・福井の北陸諸県が主流をしめるようになってくる。