まず道毎日(二十四年一月二十日~二十二日)に掲載された二十四年における豊平・月寒・白石の三村の自小作数は、表5のようになっている。
表-5 自作・小作数(明治24年) |
村 名 | 自作専業 | 自作兼業 | 小作専業 | 小作兼業 | 計 |
豊平村 | 491人 | 69人 | 190人 | 49人 | 799人 |
月寒村 | 526 | 51 | 294 | 77 | 948 |
白石村 | 469 | 39 | 222 | 34 | 764 |
『北海道毎日新聞』明治24年1月20日~22日付より作成。 |
これによると小作専業、兼業者の割合は豊平村が約三〇パーセント、月寒村が約三九パーセント、白石村が約三四パーセントとなっている。各村民の三~四割が小作に従事していたことが知られる。
しかしこれ以降、小作地・小作戸数は増大する一方であったことが三十二年のデータから判明する。三十二年のデータは当時、『北海道庁殖民状況報文』の作成をおこなっていた河野常吉の収集になるもので、札幌・雁来・苗穂・丘珠・豊平・平岸・月寒の七カ村にわたる自小作地の面積、札幌ほか四カ村の自小作数が記録されている(表6)。
表-6 自小作地と自小作戸数(明治32年) |
村名 | 自作地 | 小作地 | 田畑 合計 | 小作地 割合 | 農業主業者 | ||||
田 | 畑 | 田 | 畑 | 自作 | 小作 | 自作兼小作 | |||
札幌 | -反 | 3033反 | -反 | 4782反 | 7815反 | 61.2% | 16戸 | 235戸 | 31戸 |
雁来 | 25 | 1181 | 38 | 1525 | 2779 | 56.2 | 6 | 80 | 11 |
苗穂 | - | 2612 | - | 3442 | 6054 | 56.9 | 10 | 230 | 28 |
丘珠 | 6 | 2709 | 5 | 3354 | 6074 | 55.4 | 2 | 120 | 39 |
豊平 | 81 | 2241 | 34 | 1226 | 3582 | 35.2 | |||
平岸 | 153 | 5582 | 84 | 3307 | 9126 | 37.2 | |||
月寒 | 315 | 6544 | 123 | 2748 | 9730 | 29.5 |
札幌・雁来・苗穂・丘珠村は『札幌郡調』(北大図)、豊平・平岸・月寒村は『豊平村 平岸村 月寒村沿革大略』(札幌市中央図書館)より作成。 |
これによると札幌ほか四カ村は、豊平・平岸・月寒村にくらべ小作人の割合が多く、いずれも五五~六一パーセントに達する高率で、豊平ほか三カ村が二九~三七パーセントに対し二五ポイント余の差がある。これは札幌ほか四カ村には日の丸、佐藤、富樫、五十嵐、中野、農学校第三農場などの大規模農場が存在したことによる。これに対し豊平ほか三カ村は農場は割合に少なく、これが差異となってあらわれたものだろう。農業主業者の自小作数をみると、小作数が極端なほど多くなっている。小作地割合にくらべ小作数が多すぎるきらいがあり、データとしてはやや不審な点も残るが、この時期にいたり農場が整備・拡充されるにつれ、小作数が増大してきたことを推しはかることができる。それでは農場側ではどのようにして小作人を募移したのだろうか。次に小作移住の展開についてみることにしよう。
まず小作戸数の最も多かった篠路村の興産社(後の谷、拓北農場)は、十七年から徳島県より小作人を募移したのをはじめとし、主に徳島県で募集した。これは興産社が同県出身の瀧本五郎が起業したこと、興産社が製藍(あい)を主力としたので藍の産地である同県の熟練した農民を必要としたことによる。二十四、五年にも募集し、二十五年三月には六〇人の移民があったことも報じられている(道毎日 二十五年四月一日付)。三十年は徳島、兵庫県(淡路島)で二〇戸、三十一年は徳島、新潟県で六〇戸を募集している(殖民公報第八号)。これらの募集により小作戸数は、表7のように年をおうごとに増加している。
表-7 興産社農場の小作戸数 |
年 | 小作戸数 | 人員 | 出典 |
明治22 | 35戸 | ‐人 | 北海道毎日新聞 23年1月24日 |
25 | 46 | 190 | 北海道通覧 |
30 | 100 | 377 | 徳島日日新聞 30年9月23日 |
31 | 118 | 488 | 同上 |
35 | 125 | - | 殖民公報 第8号 |
大正 1 | 101 | - | 北海道農場調査 |
小作戸の出身地は主に徳島県から募移したこともあって同県が圧倒的に多く、三十五年は一二五戸中八九戸もあり、ついで新潟県が三〇戸であった。大正元年は一〇一戸中徳島県は六七戸、新潟県は二五戸とやや減少しているが、両県出身者で大部分を占めていることに変化はない。小作戸は入退場が甚しく異動の変化が多いものであるが、後続の入場者もひき続き両県人がとられた模様である。
篠路村の農場では、中野農場が二十七年以来福井県に人を派遣して募移にあたり、三十三年の小作戸数七三戸のうち福井県出身者が六〇戸を占めていた。また十九年十一月に山田顕義が四〇万坪の貸下をうけた山田農場(山田開墾、山口開墾ともいう)は、二十年に山田の郷里(阿武郡椿郷東分村、現萩市)にて農民を募集しているが、二十四年に札幌区の商人佐藤金治が買収後は、同年に山口・徳島・香川の三県で一九戸を募移している。小作戸数は三十三年に三八戸を数え、そのうち徳島県が一四戸、香川県が一三戸であった。
次に前田農場をみると、石川県能美郡にて三十年に七戸、三十一年に五戸を募移して軽川支場に入れている。軽川支場ではすでに二十七年に石川・富山県で募集しており、三十三年の小作戸数五二戸のうち石川県が最も多く、次に富山県であったという(札幌郡調)。三十二年の『北国新聞』にも小作人募集の広告が掲載されており(三月十五日付)、石川県を中心に募集活動が行われていたようである。ただ大正元年では四二戸のうち石川県一一戸、富山県六戸でありかなり流出したとみられる。茨戸本場では七戸のうち石川県出身者は一戸もいない、当初、石川県を中心に募集がおこなわれたのは、場主の前田利嗣が旧加賀藩主であったことによる。興産社、山田農場、前田農場などの小作戸は、いずれも場主の郷里で募集されており、これが一般的であった。
写真-3 前田農場と前田利為(殖民公報 第94号)
結社・集団組織によるもの、あるいは会社・農場の小作団体の移住は、同県人がまとまって同一地域に入植するので、地方の言葉、様々な文化も移され、地域的な生活文化の特徴を札幌市域に現出することにもなった。
以上のように篠路村の諸農場では、直接、各府県で小作戸の募集にあたっていたが、二十年代から三十年代にかけ各農場が拡充される時期にあたっており、札幌への農民移住も小作移住が本流であり、大規模な小作移住が展開されていたといえる。