漁狩猟中心の近世にあって繁栄したこの一帯は、明治農業社会への転換に不向きだった。平坦で農耕適地に見られがちだが、実は土性に恵まれず、水魔の危険にさらされていたからである。北海道庁は明治十九年にいち早くこの周辺を殖民地として選定し、琴似原野と名付けたが「平坦卑濕ニシテ密林ナリ。(中略)良田トナサント欲セハ堤防及排水ヲ要スベシ」(北海道殖民地撰定報文)と報告している。組織的な力をもって河川改修や土地改良を大規模に施さなくては開墾地にならなかったから、一般移民が個々に入地しても成功しうる見通しのたたない土地柄だった。その困難を乗りこえる力を屯田兵に期待し、札幌市街の西、南、東についで、残る北の固めとすることになった。
二十、二十一両年の入地をもって始まる新第一大隊第三中隊は、現北区新琴似(条丁目)、新琴似町、麻生町、新川一帯を用地とし、新琴似兵村と呼ばれ、当時は札幌郡琴似村の一部である。新第一大隊第四中隊はその北に接続し、現北区屯田町をすっぽり含み、石狩町花川にまたがる一帯で、篠路兵村と呼ばれる。当時、札幌郡篠路村に属する土地が大半だったからで、ここが札幌四兵村の最北部に位置し、二十二年の入地をもって開村する。この時点で第一大隊が再編され、琴似兵村(旧一、二中隊)を第一中隊、山鼻兵村(旧三、四中隊)を第二中隊とし、江別、野幌両兵村を第三大隊に移籍することにより、札幌四兵村をもって第一大隊に編成替えした。札幌の東を固めていた江別、野幌兵村を分離したことになるが、これはあくまでも陸軍大隊編成基準によることで、その位置や役割を変えたわけではない。なお、新第一大隊に室蘭市の輪西兵村が第五中隊として加わった時期がある。また、日清戦争復員の日をもって大中隊の編成替があり、新琴似兵村を第一大隊六中隊、篠路兵村を同七中隊としたが、解隊まで九カ月たらずなので、多くは三、四中隊名をもって呼ぶことにする。
図-1 新琴似・篠路屯田兵村の位置
明治29年版五万分の一地形図「札幌」(部分 国土地理院)
篠路兵村の中隊本部と北海道庁の距離は約八・二キロメートルで、四兵村中で最も遠くに位置している。新琴似中隊本部とは約五・六キロメートルだが、両兵村と札幌市街の道のりはこれよりもはるかに長い。人馬の往来はいずれも琴似兵村を経て現在の道道宮の沢北一条線北五条手稲通(旧国道五号、通称札樽国道)に出るか、創成川に沿う現国道二三一号(通称石狩街道)に出て市街へ向かうか、いずれかによらなければならなかった。のちに西五丁目通を開削したので、札幌市街との連絡は便利になった。