大正七年に老舗の芝居小屋大黒座は、映画常設館錦座に変わる。これがのちの直営館、松竹座となる。
錦座出発当初の宣伝誌が北海道立図書館に残されている。(1)「実写、ユ社週報」(弁士、川島華葉)のユニバーサル社のニュース映画、(2)「喜劇、子供お断り」〈リー・モラン君演スター映画〉(弁士、川島華葉)、(3)「悲劇、此姉妹」〈バッタフライ特作、ヴァイオレット・マクミラン嬢演〉(弁士、島村公動)、(4)「休憩奏楽、真似鳥の嘲り、エレン作」(オーケストラ団)、(5)「諷刺悲劇、好戦将軍」〈ジュエルプロダクション、ルバート・ヂュリアン氏主役、ユ社名優四十余名共演〉(弁士、熊谷暁風)、そして「映画奏楽、春の野に〈グレー作〉、近衛聯隊〈ハーロルド作〉、戦の惨〈ルドルフ作〉、出征〈スーザ作〉」(錦座タイムス創刊号 大7・12・11)。
錦座の花形弁士熊谷暁風は、大正六年に銀座金春館から小樽錦座に移り、札幌の錦座が映画の常設館となるに伴って移ってくる。のちに熊谷は北海道庁長官よりも高給の七〇〇円で美満寿館に移る(更科源蔵 北海道映画史)。
無声映画を支える裏方について、昭和六年にエンゼル館の経営を引き継いだ蒲生喜美は、エンゼル館では、映写技師四、五人、下足番二人、案内の女性三人、切符売り一人、専属弁士三人。ピアノ、トランペット、バイオリン、ドラム、クラリネットの楽士が各一人。三味線、太鼓などのお囃し連とその弟子といった大勢のスタッフを抱えていたと述懐している(映画館と私)。
また大正十二年の関東大震災後に、東京から弁士の松浦翠波が遊楽館にやってくる。
無声映画時代の札幌の映画館のあり様は、震災後の十四年に札幌松竹座の支配人として札幌にやって来た前川弥輔の回顧から鳥瞰できる。
美満寿館は(中略)日活映画の髷物で人気を集めていた(中略)遊楽館は東亜映画と帝国キネマ、豊平に仁俠男石橋正身のもつ八二館、洋画専門の金春館、須貝氏先代の本城とした札幌劇場、岩見一家の大立者池田金五郎の立て籠る帝国館―現帝国座―と口物落語音曲漫才等の九島系中央館(傍線・筆者)
そして、松竹座の八つであったとする(北海道映画興行名鑑、表10参照)。
表-10 札幌劇場年表(寄席,劇場,映画館) |
年次 | 名称 | 所在 | 建設者 | 備考 |
明 4 | 秋山座 | 南5西5 | 秋山久造 | 後の松竹座 |
大 7 | 大正館 | 北2東2 | 不詳 | 泉館を経て東館に改める |
杉本実『札幌の劇場記録』,更科源蔵『北海道映画史』(昭45)より作成。 |
写真-12 大正7年に名称が変わった札幌劇場(南3西1)
前川弥輔は錦座を札幌松竹座と改称し、松竹本社の直営館として大改革する。このあと札幌松竹座は、昭和二年の火災のあと四年に新築され、初の椅子席、下足禁止で暖房完備、玄関回りは大理石で赤い絨緞が敷きつめられた「札幌で一番立派で、最も大きい劇場」となった(浦田久 思い出の映画)。
昭和の幕開けとともに、もとの錦座四館(札幌・小樽・函館・旭川)を経営する岩見永次郎や、創成川の見世物を取りしきった明治以来の興行師らの世界が変化し、前川弥輔の存在に象徴されるように、東京の映画会社による札幌の興行界への影響力が増してゆく。それは娘義太夫の師匠であった九島ハツから、トーキー時代をになう九島勝太郎への世代交替にも照応している。
大正後期になると映画をめぐる出版物が札幌で発行されるようになる。
大正十一年一月に、雑誌『趣味と芸術』が、演劇社(南大通西10)から創刊される。映画・演劇・音楽等の総合誌をめざすが、創刊号は津保田芦葉「映画劇に於ける舞台監督の意義」、河端紫水「アメリカに於ける民衆芸術としての活動写真」など映画関係の記事でしめられた。創刊号で札幌の映画界についての覆面の座談会が載るが、その中の発言に、「一二の興行者が、従来彼等が採って来た営利万能主義から目覚めて映画といふものを、ほんとうに民衆娯楽機関として、又一歩進めて文化の開発の機関として運用して行かうと努力して来た」とある。また大正十三年六月五日の『北海タイムス』には、札幌市内で映画専門雑誌『北方映画』が生まれたと報じている。
大正十五年九月十四日には太平館ビル(南4西3)の映画社より活動雑誌『映画』が発刊され、各館割引券五枚付きに、札幌・小樽の映画ファンの人気をあおり、三〇〇〇部が完売された(北タイ 大15・9・15、23)。
映画社の同人は、加藤悦郎、佐野四満美、弁士熊谷暁風、松浦翠波ら二二人で、「キネマ・リーグ」と称する映画同好会、「映画の夕」の催し、映画に関する講演会・展覧会、教育映画・宣伝映画の製作などをめざした(映画 一号)。
大正六年に、区立各小学校長会議の決定で小学生の常設館観覧は禁止されていた。雑誌『映画』創刊号に載った活動写真に対する教育関係者へのアンケートでは、青少年に対して悪影響を懸念する声が高いが、小中学生にはその魅力は押えがたいものであった。札幌師範教諭早坂義雄は、今の映画は「普通の学生々徒といふより一般民衆を標準」としているが、父兄の立場からの発言として、「私なぞは始のうちは絶対に見せぬ主義だったのですが、そのうちに一年に一度位、それから一学期に一度、次には一月に一度位はいゝだらう」となっていったとする(映画 一、三号)。昭和五年の「小学児童の映画熱」と題する新聞記事では、三、四年生の半数はファンであるとし、さらに「男女学生の映画熱」では女学生のみならず中学生でも映画熱は高く、低学年では日本物が、高学年では外国物の人気が高いと分析する(北タイ 昭5・11・12、28)。
その他、トーキー映画への移行期の札幌の出版物に、昭和五年版の『映画年鑑』には、松竹映画後援会(北1西3)から月刊で『映光』が出されたことが記される。昭和九年版『映画年鑑』には、月刊で『映画新論』(大通西4、発行人・小寺徹郎、編輯人・伊藤重弘)が発行され、内外映画社(大通西4、発行人・小笹正人、編輯人・伊藤重弘)からは、旬刊で『内外映画旬報』が発刊されたという。
昭和五年八月に三友・遊楽・中央の三館が一〇万円の株式組織・九島興行に改組される。同時にパラマウント、帝国キネマを上映していた遊楽は、マキノ東亜に、中央館は色物や小屋貸を行うこととなった(北タイ 昭5・8・12)。
札幌の封切り興行の様子を昭和八年を例にみると、松竹映画は松竹座、新興映画は遊楽館、日活映画は美満寿館、東活映画は中央館、河合映画はエンゼル館。二番上映については、松竹映画は八二館、美登紀館、新興映画は中央館、日活映画・東活映画はエンゼル館となっている。封切り映画の配給組織については、松竹映画は松竹北海道支社(支配人・前川弥輔)の直営、新興映画は内外映画社(経営・小笹正人)の請負配給、日活映画および東活映画は北海道映画配給株式会社(専務・添田武源)の請負配給、河合映画は河合映画北海道支社(支社長・吉田子之蔵)の直接配給となっている。洋画の封切りについては、
最近洋画は著しく衰微し、昔日大会社が概ね本道に支社を設けてゐたものが、今は全部引き揚げて、僅かに三映社、池上映画社、東亜商事等が、請負支社を設けてゐるに過ぎず、パラマウントもメトロもユニバーサルも悉く東京本社から直接配給して、本道で洋画専門封切は之までは三友館があるのみであつたが、新年からは日活系の美満寿館が邦画と共に洋画を上映してゐる
といった状況であった(北タイ 昭8・1・13)。
昭和六年二月に、三友館がいち早く発声装置ニップトンを導入し、松竹座も一カ月遅れて土橋式を導入する。しかし外国物は「擬音音響版」以外は外国語の理解が難しく、「設備多大・器械不完全といふ様な為に、笛吹けどファン躍らず、結局ソロバンがとれない」と評価されている(大札幌案内)。
また昭和三年に北大予科に入った渡邊左武郎は、映画愛好会で同人誌『エクラン』を出した学生時代を回顧し、「このころはまだ無声映画が多く、洋画もトーキーで入ってきても、外国語では内容がわからず、音を低くして弁士が説明する状態」だったとする。
昭和六年に日本でも本格的なトーキー映画「マダムと女房」が制作され、札幌では松竹座で翌七年に正月興行がなされる。最初のトーキーの上映は、三友館で六年八月十三日から上演された、マレーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパー主演の「モロッコ」である。八月十八日にはファンの要望に応え、弁士の説明なしという北海道における最初の試みがなされる。広告にいう「無説明に依ってディートリッヒの声をそして音響効果の偉大さに酔ひ給へ」(北タイ)。
美満寿館も三友館・松竹座に続いてトーキーの装置を入れる。大物弁士熊谷暁風をかかえる美満寿館では、無声映画とトーキー映画を交代で上演する。昭和八年正月五日からの正月興行では、熊谷暁風が説明する大河内伝次郎主演「煩悩秘文書」を上演。代わって正月十日からは、「全発声日本版」によるワイズミューラー主演の「類猿人ターザン」の上演であった。その他の映画館は無声映画を上映しており、エンゼル館にトーキーが入ったのは昭和十年頃と蒲生喜美は回想している。
トーキー時代の幕開けから、日中戦争前夜までに札幌で上演された作品の一部をあげる(北海道映画史、田中純一郎 日本映画発達史)。昭和七年には世相を反映した「爆弾三勇士」、洋画ではルネ・クレール監督「自由を我等に」、ベルリンを舞台にした音楽映画の「三文オペラ」。八年、衣笠貞之助監督「忠臣蔵」(松竹下加茂)、洋画では、ドロテア・ウィーク主演「制服の処女」、特撮のスペクタクル映画「キングコング」、世界的水泳選手ワイズミューラーが主演する「類猿人ターザン」。九年、伊藤大輔監督の初のトーキー作「丹下左膳」(日活太秦)、野村芳亭監督「婦系図」(松竹蒲田)、溝口健二監督「神風連」(新興キネマ太秦)、田坂具隆監督「月よりの使者」(同)、チャップリン自作自演の「街の灯」。この年のデュヴィヴィエ監督の「にんじん」は、劇団第一歩の上演とセットであった。十年は「佐渡情話」、衣笠貞之助監督「雪之丞変化」(松竹下加茂)、「我が輩は猫である」「兄いもうと」(ピー・シーエル砧)、洋画ではオペレッタ映画の「会議は踊る」、マリー・ベルの二役が話題となった「外人部隊」、音楽映画の「未完成交響楽」。十一年には、田坂具隆監督「明治一代女」(日活多摩川)、「新選組」(日活太秦)、稲垣浩監督「大菩薩峠」(日活太秦)、内田吐夢監督「人生劇場・青春篇」(日活多摩川)、伊丹万作監督「赤西蛎太」(日活・千恵プロ)などであった。
こうした昭和ヒトケタの札幌の映画館の黄金時代を、映画評論家の岡俊雄は、「東京で当った名作が同じくらいに評価された町は、関東、北海道で札幌だけだといわれるのが定評であったくらい、業界では札幌の映画ファンの鑑識眼が評価されていた」と回想する。
かつて小屋がはねたら、弁士の名を染めた小旗をたてて花柳界に繰り出した熊谷暁風も、昭和十一年の正月には、美満寿館の舞台裏で片岡千恵蔵のトーキーを聞きながらつぶやく。「今更我々の出る幕ぢゃない。何をいって見た処でそれはみんな悲鳴にしか聞こえんでせうからネ」(九島勝太郎 私のなかの歴史、樽新 昭11・1・18)。