豊臣秀次書状
豊臣秀次書状

<史料解説>

豊臣秀次書状    真田宝物館蔵

 天正十八年(一五九〇)四月九日付。小田原の役のおり、北条攻めに加わっていた豊臣秀次が、やはり従軍中の真田信幸の労をねぎらったもの。信幸は北国囗部隊の一員として、前田利家上杉景勝らと上州碓氷郡松井田城を攻撃中であった。秀次は秀吉の甥で天正十九年には秀吉から関白職を譲られた。しかし、文禄二年(一五九三)、秀吉に実子秀頼が生れると、秀吉との関係は徐々に悪化し、同四年には謀反を企てたという理由で高野山に追いやられ、切腹させられている。朱印の印文も「豊臣秀次」。

<訓読>

  其の表永々在陣、誠に苦身の段、察し置き食(め)され候。将又(はたまた)帷子(かたびら)ニこれを遣はされ候。猶、追々仰せ遣はさるべく侯也。
   卯月九日 (朱印)(豊臣秀次
     真田源三郎とのへ

淀殿和歌短冊
淀殿和歌短冊

<史料解説>

淀殿和歌短冊   真田宝物館

 松代藩主真田家伝来の「御手鑑」中の一つ。「秀頼御母堂淀殿」の短冊とされる。「君をのミ思ひねに寝しゆめなれハ我こゝろからみつるなりけり」。「古今和歌集」凡河内躬恒の歌。

豊臣秀頼書状
豊臣秀頼書状

<史料解説>

豊臣秀頼書状   真田宝物館

 真田信之から歳暮の祝儀の品として呉服が送り届けられたことについての豊臣氏二代秀頼礼状。黒印の印文は「秀頼」。秀頼は慶長二十年(一六一五)五月八日の大坂城陥落に際し、母淀殿とともに自害して果てた。片桐市正(いちのかみ)且元は秀頼の後見役。

<訓読>

  歳暮の祝儀として呉服ニ到来、遠路祝着に候。尚片桐市正申すべく候。謹言。
   極月二十七日 (黒印)(豊臣秀頼
     真田伊豆守とのへ

 協力者

 本書の編集にあたり、資料のご提供やご協力をいただいた皆様のお名前を、ここに記させていただき、あらためてお礼申し上げます。

 (敬称略・順不同)

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主な参考文献

底本 『秀吉と真田』(上田市立博物館編集・発行 平成23年)

 なお、解説は底本執筆の寺島隆史が担当し最新の研究成果を基に書き直したので底本と異なる部分がある。