[注記]

*この注では、木曾林学校のことを「木曾山林」、校友会報のことを「会報」、岐蘇林友のことを「林友」と略記することとする。
 
(注1)岡部喜平:木曾林学校第5代校長。静岡県出身。明治31年東京帝国大学農科大学林学科卒業。高知・秋田・鹿児島・東京などの大林区署技師などを歴任した後、大正9年(1920)3月に木曾山林に赴任。昭和6年3月まで11年間在任した。なお、同大学林学科では初代校長熊の2年後輩になる。
(注2)国立騒ぎ:明治の終わり頃から大正にかけて、木曾山林を国立にしたいという運動が起こり、県会や帝国議会に何回も陳情したことがあった。このことを国立騒ぎと呼んだのだと思われる。
(注3)蘇門(そもん):「蘇」は木曽、即ち岐蘇の「蘇」で地名を表す。また「門」は同じ師の教えを受けた仲間のこと、ここでは学校の意に用いている。木曽の学校即ち木曾林学校のこと。
(注4)西澤静人:教諭。長野県出身。明治42年5月静岡県立農林学校から木曾山林へ。2年1ヶ月在職した後、長野県庁林務課に転勤、大正3年(1914)10月再度同校へ転勤してきた。造林学・林価算法などを担当。
(注5)米山太郎吉:長野県出身。明治35年8月に木曾山林へ赴任。植物・動物・英語などを担当し、教頭も務めた。明治41年11月に病気のため退職。その後快復して県外の中学校に勤務。
 
(注6)菊池生:教諭兼舎監。岩手県出身。東京帝国大学理化動物科卒業。大正9年2月に赴任。「森林と昆虫」(『林友』129号)など寄稿
(注7)ねゝずあすひ:ここは木曽五木のことを述べているので、「ねゝず」はネズコの誤まりか。「あすひ」はアスナロのこと。
(注8)宮川丑作:元教諭兼舎監。
(注9)安井正夫:木曾山林の元書記(事務職員)。明治37年10月から大正2年7月まで勤務。岐蘇林友にしばしば短歌を寄稿。郡会で山林学校設立の議論が出た頃、安井は郡の若手幹部の一員として静岡まで本多静六の講演を聞きに行き、感銘を受けて「是非、山林学校をつくるべきだ」と郡会に報告したというエピソードがある。校友會報や岐蘇林友等の発行者にもなっており、印刷所との折衝等に事務方として参画した。
(注10)宇佐美生:”生”というのは、この当時の生徒が寄稿するときによく使った言葉、男性の謙称である。第2回・明治38年3月卒業。旧姓・藤原周紫のこと。
 
(注11)トランシット:平角と鉛直角を測る器械。陸地測量などに用いる。
(注12)林価算法:森林もしくはその一部の木材の金銭的価値を算出する理論および計算式のこと。市場価逆算式とか土地費用価式などがある。現在は森林評価の中の一部として扱われる。
(注13)脇田山の人:第5回・明治41年3月卒業の脇田義正。卒業後家業に従事したが、その後名古屋木材に就職。この『林友』144号には3編寄稿している。文中に”山の人”という言葉がでてくるが、山の人=私(脇田)と読み替えればよい。
(注14)赤の方形不完全な古建築:開校当初の校舎は、郡立高等小学校の廃校舎であった。当時「門白、塀黒、赤学校」と呼ばれた。
(注15)飯沼生:第12回・大正4年3月卒業の飯沼要人。卒業後、石川県石川郡役所に勤めた。
 
(注16)林相(りんそう):ひとまとまりの森林の樹種・樹齢・生え方などからみた様子・形態を短い言葉で表現したもの(例:アカマツ・コナラ二段林)。それを分けして図面に表示したものを林相図という。
(注17)青表紙:直接的には青の表紙の本を指すが、古くは藤原定家が校訂した源氏物語や儒教関係の書物、曲のけいこ本などの古典が知られる。ここでは、現場を知らない学者らが書物(青表紙)で得た知識のみで理論に走ることを皮肉ったものであろう。
(注18)赤亡国論:明治・大正期の著名な林学者である本多静六博士が1900年(明治33年)に発表した「我国ノ地ノ衰弱ト赤」という一文が元で、「アカマツを残しておくと国が滅びる」というような誤解が生じたことを指す。著者(脇田)は本多博士の言は啓蒙的な意味で肯定しつつ、アカマツが生育が早く用途も多い有益な樹種であるとして、赤万能論を展開しているのである。
(注19)中林作業:同じ林地の中で、用材林である高林と薪炭林などとして供する低林を組み合わせて育てる作業。高林の肥大成長をうながすために間伐し、あいた空間を利用してナラやクヌギなどを育てるのが一般的であるが、現在は薪炭林の必要性が低下したために、中林作業はあまり行われない。
(注20)MY生:第17回・大正9年3月卒業。北海道庁林務課勤務の吉田正男である。
 
(注21)アッシ:アイヌ人が木の皮の繊維で作った衣服で、筒そでが多い。
(注22)大木放野:第16回・大正8年3月卒業の大木多喜雄。
(注23)黒岩正平:第2回・明治38年3月卒業。烏川村は現安曇野市堀金烏川。
(注24)館藤太郎:第4回・明治40年3月卒業。大村出身。本文にあるとおり青森大林区署に勤務。『林友』にはしばしば近況報告を寄せている。
(注25)斫伐(しゃくばつ):大正~昭和戦前期まで、国有林の直営生産で使われていた言葉で、現在の伐採(伐木造材)という語と同じ。
 
(注26)屠(と):原文の「屠す」は牛馬を殺すという意味。ここでは、「屠さん」で自身の命を落としそうになるという意。
(注27)天然更新法:天然更新というのは人工造林に対応する言葉で、ここで出てくる天然下種更新は林内の母樹からタネが落ちてきて芽を出したものを育てる方法、萌芽更新は木を伐採した切り口(主に根株)から芽が出て来てそれを育てる方法、伏条更新(ふしじょう、ふくじょう)は地面を這うように伸びた枝から根が出て、別の個体として上へ伸びるものなど、いろいろなケースがあるが、自然におこなわれる更新を人が手助けすることを天然更新法と言っている。
(注28)官行造林:国が主として放置されているような公有林(県有・市町村有・財産区有など)に対して、地上権を設定して植林すること。官公造林法にもとづいておこなわれる。間伐・主伐収入は国と土地所有者で分ける。
(注29)赴(おもむく):文章の前後のつながりから、趣(おもむき)のまちがいではないかと思われる。
(注30)立道生:第17回・大正9年3月卒業。在学中、生徒雑誌部副編集長として部長と共に『林友』誌の編集に関わり苦労した一人。
 
(注31)蘆花:明治大正時代の小説家、徳冨蘆花。引用している「愛されぬは不幸なり……」という名言は、小説『ほととぎす』の中にでてくる。
また蘆花は木曾林学校の卒業生とも関係があり、特に太田喜代(4回卒)の書いた小説『仮寓』の原稿を読んで、蘆花は「『仮寓』は実生活の実感に基つきたる貴重なアルモノを有す」と評した。なおこの原稿は出版の運びになったが、刊行されることはなかった。
(注32)ロマンローラン:フランスの理想主義的ヒューマニズム・平和主義・反ファシズムの作家。1866~1944。ノーベル賞受賞者。
(注33)賀川豊彦:大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。キリスト教における博愛精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。妻ハルも社会運動家。(1888~1960)
(注34)一燈園主:宗教家西田天香のこと。滋賀県生れ。北海道開拓事業に従事した後、宗教道場一燈園を創設、奉仕生活の伝道を始める。著書に『懺悔の生活』など。(1872~1968)
(注35)倉田百三:大正・昭和初期に活躍した劇作家、評論家。『出家とその弟子』『愛と認識との出発』などの著書がある。(1891~1943)
 
(注36)焼鳥:居酒屋で食べる串に刺さった鶏肉の焼鳥ではなく、この焼鳥は明治以前から木曽谷で食していたツグミなどの渡り鳥で、晩秋の頃、空が暗くなるくらいの大群で渡ってきたのを、かすみ網で一網打尽にとる伝統的な猟法があった。それを現地で食べさせる鳥屋(とや)というその季節だけの施設もあった。戦後、かすみ網による狩猟は禁止されている。
(注37)門田生:当時3年生で、校友会雑誌部長を務めていた。高知県出身。
(注38)吉川真夫:第12回・大正4年3月卒業。卒業後、国民英学会英文科に学び、大正10年(1921)2月母校へ赴任。英語担当の教諭心得。
(注39)本統:「本当」の誤まりか。
(注40)5リーグ:リーグは英米で用いられる距離の単位で、時と所で一定しないが、1リーグ=約3マイル=4.83 km。従って5リーグは約24 kmか?
 
(注41)セントピータースブルク:ロシアの旧首都サンクトペテルブルク。1703年ピョートル大帝の築いた都。彼はその名を、自分の名前(ロシア語名ピョートル、英語名ピーター、ギリシア語名ペテロ)と同名の聖者ペテロの名に因んでつけたという。
(注42)小貫生:小貫堅藏。秋田県出身。体操・柔道担当の教諭心得。
(注43)伊東近良君:16回・大正8年3月卒業。卒業後は高知窪川郡小林区署へ就職した。
(注44)カイゼル・イルヘル?2世:ドイツ皇帝ウィルヘルム2世のこと。汎ドイツ主義の政策を行った。第一次世界大戦の敗戦後のドイツ革命により退位。(1859~1941)
(注45)汎独主義:汎ドイツ主義。汎ゲルマン主義のこと。ドイツが盟主となり、ゲルマン民族が世界の覇権を握ろうとする主義。第一次世界大戦の結果挫折したが、その主張の多くはナチスに継承された。
 
(注46)賭(と):「賭」はかける意であるが、ここは「屠(と)」の誤まりか。「屠」は人を残酷に殺す意。
(注47)ウイルソン大統領:アメリカ合衆国第28代大統領。第一次大戦中、1917年対独宣戦を布告。戦後は国際連盟設立などを提唱、実現に向け尽。(1856~1924)
(注48)判任文官(はんにんぶんかん):明治憲法下の下級の文官。
(注49)を以て:「を以て」の3字、原文にないが補足。次の「同年3月2日~第16号」の後も同じ。
(注50)古者有~不忘也:昔は何か喜ばしいことがあると、物に名前を付けた。これは忘れないということを示している。ここでは、蘇東坡の言葉のとおり今や我校も創立20周年を迎え大いなる喜びである。そこで記念式とか記念日とか記念誌とか、名前を付けて忘れないようにしている意。          なお、蘇東坡(そとうば)は蘇軾(そしょく)のこと。北宋の詩人・文章家。唐宋八家の1人。1036~1101。
 
(注51)喜雨亭(きうてい):「喜雨亭記」という蘇東坡が書いた文章。日照りが続いて人々が大変困っていた時に、恵みの雨が降り大いに喜んだ。たまたまその時に自分で建てた建物があり、そこに「喜雨亭」と名付けて、その喜びを忘れないようにしたという。
(注52)疣(いぼ)に~贅(ぜい)たる:贅は瘤(こぶ)の意。ちっぽけではあるが、それでも疣というほどではなく瘤くらいはある。所詮たいしたことはない意。ここは自分を卑下して言っている。
(注53)甲氏:「甲」は「田」と「中」を合せた字で「田中」と読める。これと併せて内容から判断すると、この跋文は国語・漢文担当の田中隆寿教諭の執筆。