俵物指定問屋

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 それがため長崎会所では、延享元年から俵物一手請方制をとり、長崎商人のうち帯屋庄次郎が一手に請負うことになり、同3年引続き西川伝治が近江八幡商人代表者として、松前、箱館、江差3港の俵物集荷を命じられたが、彼らは松前の俵物長崎へ直接送るほか、少しでも有利な所で取引を行うため、敦賀大坂下関においてそれぞれ問屋へ売渡していた(小川国治『江戸幕府輸出海産物の研究』)。こうした実情から宝暦4(1754)年に至り、長崎俵物一手請方問屋から、松前藩に対し一手買入れ願が出された。すなわち、俵物一手請方問屋のうち住吉屋新右衛門が、長崎から松前に乗り込み、松前藩と直接交渉の結果、昆布に400両、煎海鼠・白干鮑に4000両の運上金を納めて一手買請を許されたのである。かくて長崎俵物請方問屋では、松前、箱館、江差の3港にそれぞれ指定問屋を置き、各地の場所請負人および生産者から俵物を買入れさせ、その指定問屋は、松前は河内屋増右衛門、箱館長崎屋半兵衛、江差は熊石屋吉三郎の3人であった。
 この指定問屋の設定以降は、これまで集荷に当っていた近江商人も、指定問屋俵物を売渡さねばならず、集荷過程での近江商人の支配は著しく後退した。そしてこのことは、一方では幕府による俵物の独占集荷体制の統制・強化を意味し、同時に箱館にとっては、近江商人の支配から離れた集荷問屋の指定により、俵物生産者と地元問屋との関係が、より密接になったことを意味している。
 ことに宝暦13年、清国との唐銀貿易が開始されると、俵物はその見返り輸出品として一層重要性を増してきた。すなわち、
 
 宝暦十三年石谷備後守(長崎奉行)様御在勤の節、唐銀三百貫目持渡り、当年より始め二十年の間、年々持渡るべき由、右代り物は銅並びに俵物にて御渡方相成り候処、唐人共銅より俵物を相好み候趣、右に付是迄請高の外、俵物出方相増仕法申上げ候はば、誠に御国益の儀忠節に付、憚りなく存じ寄り申上げ候様、後藤惣左衛門殿より申聞かされ、岩原御勘定信田新助殿、篠本六左衛門殿よりも毎々御沙汰にて、猶御手頭を以て仰渡され候に付、新浦相開き、且出方相進め候ため、仲間手分致し回浦仕るべき段申上げ候処、御満足に思召され、諸国領主御代官等への御添翰下置かれ、当地在番の聞役えは御書付を以て、右の趣仰渡され候旨、仰せ聞かされ候(『長崎俵物請方雑書』)。

 
 とあり、これによって同年10月長崎を出発して、諸国回浦が行われたが、松前、津軽・南部地方を担当したのは山下利右衛門で、この時の回浦は「諸国回浦に残る所なく相廻り、重立ち候場所場所へは詰切、新浦相開き候場所等えは、漁事の猟具拵え相与え、稼方仕立方等迄申教え、手付銀前渡し候」(前書)という徹底した増産対策をとっている。