アメリカ士官との応接

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 前日艦上での約束に基づき、アメリカ士官との応接は翌日22日で、昼四ツ半時(午前11時)ころ、アメリカ士官側は提督副官べンテ、通訳官ウイリアムズ、主計官ヒリ、和蘭語通訳官ポルテマン、司画官ホロン、支那語通訳羅森の6人が上陸、かねて手配の通り、それぞれ応接所へ案内したところ、彼らは6人の手札を差出した上、今日応対の日本側の名前を尋ねたので、用人遠藤又左衛門、町奉行石塚官蔵箱館奉行工藤茂五郎、応接方藤原主馬関央代島剛平蛯子次郎の名前書を提出し、有り合わせの菓子、茶、煙草盆などを差出して一同着席した。そしてまず通辞ウイリアムズは、日本語で箱館来航の理由や横浜、下田停中のことなどを述べた。よくわかりかねるところもあったので、程よく挨拶をしていたところ、アメリカ紙に認めた持参の書面によって横浜約定の経過を説明した。しかしこれに対し又左衛門は、いまだ江戸から何の通達もなく、かつ応接掛の幕吏も到着していないので、確たる回答もできないし、ただ今差出された書面をとくと見た上、書面によって回答する旨を述べた。この結果、彼らは提督も多用のため長期間滞船はできないが、江戸からの役人も到着していない由ならば、明朝まで待つから当所役人の相応の返事を得たい。そして明朝五ツ半時(午前9時)ころまでに、返書を受取に来る旨を述べて会談は終った。なお、退去の際、大町通を一覧したいという希望があったので、途中警衛の者が付添って案内し、弁天社から高龍寺実行寺などを一巡し、直ちに本船へ引取った。この会談は沖ノ口役所が手狭のため、かねての手配通り山田屋寿兵衛宅で行われた。
 一方、この状況を、アメリカ通訳官ウィリアムズ著の『ペリー日本遠征日誌』(馬場脩訳)によって見ると次の通りである。
 
五月十八日(木曜日) (陰暦四月二十二日)
 今朝私ども四、五名は上陸して浜の上の公の接見場のようなところで、いかめかしい接待を受けた。接見場への入口は石の防波堤の階段によって構内へ登り、ボートの内から営兵所によって隠されて見えなかった。構内を横切る道には茣蓙(ござ)がしかれて、私どもの入場に敬意を表するために、青脚胖(きゃはん)に帯刀して正装した十二名の衛兵どもが起立していた。私どもを迎えた役人どもは、昨日会ったあの四名であった。彼らはねんごろに私どもに赤いフイールトの敷いてある四角な物に腰かけるよう促して、茶やキセルを手渡した。-中略-私どもの姓名と位階が誌された後で、あの三人の役人どもが入ってきて、協議が始まった。
 いろいろと貿易の利益や、陸上の家や、散歩の自由や、下田において許されたものはなんでも、すべて要点がくり返された。そしてこの地の役人どもに条約の準備に応ずるように同じく要求した。江戸からの使節の未到着は幕府の見解を彼らは確かめ得なかったので、彼らは私どもの要望と提案を考慮するための時間を願い出たので、これには明朝九時までと同意して、彼らが強く禁止を言及した書類の他のすべての書類を置いてきた。私は口述を信頼したくなかったので、主として支那語で書かれていたために会談はむしろあきあきした。明日の提督とこの地の最高の役人との会談の時間を決定した後で、私どもは散歩を申し出たが、これには心よく同意した。

 
 また『ペルリ提督日本遠征記』には、
 
 朝(五月十八日)、指定の通り司令官副官が二人のアメリカ通訳、即ちウイリアムズ氏とポートマン氏及び提督の秘書を伴って奉行を訪問した。彼等が政庁に到着すると、奉行遠藤松(又)左衛門が幕僚中の主なる人物二人、即ち伊坂健蔵?と工藤茂五郎?を伴って現われた。アメリカ人達は例の如き形式張った儀礼で迎えられて、日本室にありきたりの設備をした立派な広間に着席するや、すぐに事務を行う用意が整えられた。奉行は中年の男で甚だ慈悲深い表情をし、独特の穏和さと鄭重な態度とをもっていた。同伴の二人は上役の面前で卑屈だったが、矢張り甚だ立派な日本紳士であった。協議の広間は大きく、広い出入口を通って狭い中庭から入れるのであった。その中庭には木彫の蛇腹をつけた色々な入口や、この建物内にある他の部屋部星に通ずる階段を見ることができた。吾が国のものと同じようなつくりの窓や明り取りであるが、紙を張ったものからその広間に光が導かれ、又立派な畳が床の上に敷かれていた。ところが家具は僅かに普通のものが少しあるだけで、床几も六つあるだけに過ぎなかった。この部屋の一端には浅い壁凹があって、縁側には優美な彫刻のある繰り形がついて居り、その中には普通の安楽椅子と彫像とがあって、歓待の儀式と祖先を祭るためとにあてられることを示している。従者が茶・菓子・糠菓・煙草をもって屡(しば)々出入し、又奉行と同僚の二人とは決して主人側としての務めを忘れず、絶えず鄭重に賓客達へ茶菓をすすめてくれた。
 さてアメリカの士官達は訪問の条的を説明し、又次のように述べた。即ち提督は三月三十一日に協定された合衆国と日本との条約諸条款を行わんがために艦隊を率いて箱館に来たのであること、及び蝦夷当局者側が該条約の精神及び文字から逸(そ)れると重大な結果を惹起(じゃっき)するだろうと云うことである。それからアメリカ人に対し任意に、即ち町でも田舎でも店舗や公共の建築物内へでも入る特権を確保せしめるような取きめを、下田に於けると同様に箱館に於ても結んでくれるようにと要求した。それから更に、店をもつ商人及び市場の商人にその商品の売却を許すべきこと、売買者相互の便利のために仮りに通貨を定めることを要求し、当局は提督、士官達、遠征隊中の画家者に対して、宿舎として各々異る家三軒又は寺院をあてること、同国の提供し得る物資を一定の価格表によって艦隊に提供すること、且又アメリカで好奇心と興味の対象になると思われる蝦夷の産物と博物の標本をも提供することを要求し、それに対しては正当な価格を支払うと語った。奉行はこれらの要求を聞くや、委員達から任命された役人達-提督は到着していることと思うと語った-が、江戸からの指令をもって到達するまでの猶予を願った。奉行は日本役人の到着が遅延している理由は、箱館から首府までの距離が遠いためであるといい、冬には三十七日、夏には三十日を要する旅であると語った。彼は又、提督の提出した手紙に書いてあること以外には、何等特別な命令をうけていないと断言した。その手紙にはアメリカ人に対して普通の歓迎と好遇とを与えることと、艦隊に食料と水とを供給することを当局者に命じているに過ぎなかった。暫くの間論議をし、その間にアメリカ士官達は要求を繰り返し、奉行は反対を繰り返したが、結局は箱館当局者の意見を文書に記して、翌日提督の考慮に供するため差出すことを協定した。

 
 と、その接見の内容を記している。しかしこの最初の会談においては、いずれもアメリカ側の要望を聞いただけで、何らの決定も見られなかったし、また松前藩の応接方には決定する何らの権限もなかったのが事実である。