箱館及び蝦夷地の警衛

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 蝦夷地の取締り及び警衛も箱館奉行の重要な任務であった。殊に箱館については、早くも安政元年12月竹内、堀の両奉行は、幕府に対し次の申請をしている。
 
箱館は、船中より一望すれば、市廛(してん)、村落見透しに相成り、其上上陸遊歩すれば、尚更虚実を了察すべきに付、警備厳重ならざるに於いては夷人共侮慢して、図らざる争端を開くに至るやも知るべからず。従来の砲台は地勢悪しきにあらざるも、備砲実用に適せず。既に夷人上陸の節は、砲を覆い隠す程の義にて、台場の詮之なく、土塁等も手薄に付、何れも模様替えをなし、其外新規取建を要すべし。即ち矢不来(やきない)台場は押付台場と対峙(じ)して湾口を扼(やく)する所なれば之を改築し、押付・山背泊の二台場(此二台場相距ること凡七町)は之を中央一箇所に改築し、矢不来並びに弁天岬と相対せしめ、弁天岬は港内第一の要害なれば、海岸暗礁の上に築出をなし、隠台場を設け、築島へ新たに扇面形の台場を取建て、又沖之口番所にも四、五挺の大砲を据付け、立待台場は、夷賊外洋へ相廻るときの備えにまで少しく修築を加うべし。警固勤番の義は南部、津軽は領内数十里の海岸にて、自国の備えも整え難きに、此上出張致させては、尚更手薄に相成るべきに付、此両家には大艦を製造致させ、風潮の順逆に拘わらず、速に急に応ずる様、海軍を調練致させ度く、往々実備相整はば、夷人共海峡通航にも懼(おそ)れを懐(いだ)くに至るべし。就いては奥羽の内海防の憂いなき大藩に命じ、箱館・亀田の中間千代ヶ岱辺へ、陣屋を取建て、警衛致させ、松前家には有川村陣屋を取建て矢不来砲台を守らしむべし。

 
とあり、また当奉行所は旧松前藩の箱館役所を引継いで当てているが、別紙をもって奉行役宅を亀田の奥、鍛冶村中道に引移すべき意見を開陳している。これらの意見は、後に弁天岬台場および五稜郭築造の発端となっている。この2大工事は箱館の繁栄に大きな関係を持った。
 一方、蝦夷地全域の取締り、警備については、安政3年東蝦夷地は室蘭、様似厚岸国後択捉の5か所、西蝦夷地は寿都、石狩、留萌、北蝦夷地(樺太)の4か所に、幕吏が詰合い、それぞれ持場を設けて管理させた。警備もまた奉行の指揮下に置かれたが、しかし実際に働く兵力は、前直轄時代と同じく奥羽諸藩に求められた。前時代には主に南部、津軽の2藩がこれに当たったが、このたびは安政2年4月14日仙台、南部、秋田、津軽、松前の5藩に命じ、それぞれ所管を定めて警備させた。すなわち、南部の兵は本営を箱館字水元(現元町配水地下辺一帯)に置き、箱館から幌別に至る地、ならびに夏分だけ押付、立待の両台場を守り、津軽藩は本営を亀田村千代ヶ岱に建て、乙部から神威岬に至る地域を守った。松前藩は戸切地村陣屋を設けて、七重浜から上磯一帯の地を守った。その後、安政六6年、会津、庄内の2藩が警備に加わった。なお、仙台、会津、庄内、秋田の4藩は箱館に留守居役を置いていた。