貿易船の海外派遣

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 箱館においても外国貿易が本格的にはじめられることになると、箱館奉行は、対応策として貿易船の海外派遣を考えた。安政6(1859)年2月、その必要性を次のように述べた「伺」を提出している(『幕外』24-56)。
 箱館は「〓遠褊少」の地で、すべて交易にたよって生活しているので、外国軍艦1隻が入港しただけでも「品切」、「物価騰貴」というようなことになっている。「勝手次第之交易」がはじまれば、商人は利を求めて外国へ売払うことが多くなり、「諸産物品切」のようになってしまうであろう。産物を求めて集まる日本船は、商売にならなくなって箱館へこなくなってしまう。すると米をはじめ必要の品が箱館へ入ってこなくなり「如何様之弊害」が起るか知れない。「居交易」の弊害は大きいので「此方より外国江仕向、航海」して、必要な物品を確保する策を立てなければならない。「サンハイ・ホンコン」には条約締結済の諸国の商館もあるので、そこで商法、税則、輸出入の実況、「御有益」の物品など実地研究し、交易の仕法を立てることとし、ロシアかアメリカの船に「支配向」のものを同乗させ派遣したい。また「アンムル河」の辺には、ロシア人が多く移住し、ニコライスキは交易場になっているというので、ロシアとの国境問題も心配であり「陽に交易を名と致し」、「陰ニ彼が動静等探偵」するために「御預船又は外国船」を派遣したい。彼地は本国からはなれ「諸品不弁」の地なので、交易をすすめれば「存外御利益」もあると思われる。上記の「両条ハ一日を争ひ候儀」なので早々下知を得たい。
 「アンムル河」、「カムサッカ辺」の状況を「探偵」するという条件をつけているが、交易を重要視しての対応策の提示であった。そして「一日を争」う緊急の件だとしていたのだが、この文書が老中のもとへとどくのは、4か月後の6月18日になってである。この頃、この件は、緊急のこととしては扱われなかったようで、箱館奉行は、2年ほどのち改めて同じ趣旨で、この件を提起しなおすことになる。
 文久元(1861)年1月付の文書は、同趣旨ではあるが、書き方を、ややかえている。「アンムル河」方面の方を先にあげて交易を名として調査をおこなうとし「サンハイ・ホンコン」方面についても交易の実地研究のほかに「彼の動静を探索」することをつけ加えた。そして「外国人取扱并防禦筋貿易等都テ」に好都合な成果を得られるだろう、として交易を重視する面を弱めて提起したのである。
 幕府の開国政策が、尊王攘夷派の活動などで動揺させられる状況にあったので、交易本位で海外調査を行う計画では、採用され難いところがあったのである。
 文久元年の場合は、勘定所や外国奉行、外国掛大目付・目付の「評議」の史料がみられる(「箱館亀田丸魯領アンムル河ヘ発航一件外二件」『続通信全覧 類輯之部29』)。それぞれ慎重な態度をしめしており、特に、中国への派遣は、条約もない国への派遣ということなので問題とされ、「御取締之御主法」ができてからとか、「御書簡」で接渉してからとか、とにかく「彼方への不沙汰」のままでは派遣できないとされた。
 「アンムル河」方面のほうが「探偵」の必要性を言いやすいところがあったと思われるが結局、「御国境御取締且満州辺事情探索旁交易を名と致し先アンムル河江為試出船致交易為仕候」と「探索」本位のかたちで、「アンムル河」方面への派遣だけがきまった。「箱館奉行御預船」に「同所支配向」が乗組んで出船することになったのである。
 亀田丸に支配調役水野正太夫、諸術調所教授役武田斐三郎らが乗組んで、文久元年4月28日箱館出帆、5月7日デカストリー着、6月1日ニコライスキ着、同所7月26日出帆、8月9日箱館着、という日程で、「アンムル河」方面への出航計画を終えている。
 復命書に当たるものに『黒竜江誌』があり、行程途次の天候、経緯度などを記録し、ニコライスキの様子-人口2000、アメリカ、ドイツなどの船舶が多く集まり港湾の設備が充実していること、学校・病院などがよく整っていること、などを述べ、特に「機械及ひ火船ノ銅鉄諸具、並ニ鋳物ニ用フル所ノ煉瓦、其用土ニ至ルマデ皆ナ米国ヨリ舶送シ、又米人ノ其技ニ熟達セルモノヲ招キ其工ヲ課ス」とアメリカの技術、資材を大量の資金をもって導入している点を重視して紹介している。
 このときの貿易の様子は殆ど不明である。「官船亀田丸ヲ露国ニコライスクニ遣リ絹、布、米、醤油、馬鈴薯ヲ販売セリ、是ヲ以テ本道ニ於ケル海外直輸出ノ創始トス」(『函館税関沿革史』)という記録をみることができる程度で、貿易の様子は伝えられていないのである。
 このあと、文久2年4月29日長崎出帆で千歳丸が上海へ航海する(5月5日上海着、7月14日長崎帰着)。この計画は、外国奉行が中心となってすすめたものらしい。箱館亀田丸が「アンムル河」方面に出航するとき「追而唐国上海香港等迄も出船御差許相成候ハゝ土地之潤沢……往々莫大之御国益」=上海・香港へも貿易船を出せるようにすれば将来、大いに国益があろう、と述べていた外国奉行たちは、この時も、消極論の長崎奉行岡部駿河守の意見(「御国旗相建罷越」して不案内の地で国体にかかわることがあってはよくない、まず少しの国産品をオランダ船で持って行ってみる程度がよい、としていた)とは違って「新規手初めの儀彼是顧慮ニ過き因循いたし」ていては、手後れになる、いそいで「仕法等取調」べるべきだと述べていたのである。「外国商法見置旁貿易御試として唐国上海江船仕出方」=商法調査と試験貿易のために上海へ船を派遣することが、長崎奉行へ提示され、千歳丸の出航となったのである。
 この系譜の意見が、やや有力だったのは、亀田丸の調査、試験貿易の意義がみとめられた、ということとも思われ、さらに、箱館奉行の企画の健順丸香港バタビア発航計画がすすめられるのである。
 文久2年3月には、外国奉行から駐日のイギリス、オランダの公使に通商のため健順丸を派遣するので、万端差しつかえないように「周旋」方をそれぞれ現地の領事に連絡してくれるよう依頼し(イギリス公使への依頼は外国奉行からでは不適当と連絡をうけ、改めて老中の連名で依頼している)派遣の準備をすすめている。
 健順丸は、同年10月6日箱館を出帆、試験貿易のための昆布煎海鼠干鮑などを積んで江戸に着いたが、11月、にわかに海外渡航は中止とされた。この年6月勅使大原重徳が江戸へ下り、幕府も攘夷の勅旨に従うという態度をとることとなる、という政治情勢の反映であったらしい。
 しかし、翌文久3年10月には、健順丸長崎に於ける商法のために派遣する、但し、風順により「支那地方上海」へ乗り寄せることになった場合は、そこでの試験交易もみとめる、という「御内沙汰」=内々の指示があって11月11日品川出帆、兵庫へ寄って荷物仕入などの準備で、やや滞船、翌元治元年2月9日、兵庫出帆、薩摩の沖の強風で長崎への寄港を断念して上海へむかうことになった。2月21日上海着、イギリス領事やオランダ領事の世話になって貿易も試み、市内の実地見分もおこなって1か月半ほどを過ごし、4月9日上海出帆、15日長崎着、7月10日には品川へ帰着した。
 健順丸には、御軍艦奉行支配組頭箱館奉行支配調役並山口錫次郎以下の箱館奉行所諸術調所関係の役人が乗船、ほかに箱館町年寄の蛯子砥平も商法取扱として乗っていた。彼らの報告は、「箱館健順丸上海へ発航一件」(『続通信全覧 類輯之部29』)や『黄浦誌』に収められており、次のような内容が知られる。
 フランスの「陣営向」や造船製鉄所なども案内してもらい見学できた、商法関係では、積戻しの荷物もあったが煎海鼠干鮑等の元代1918両余で、1286両余の利益があった、「蒸損し」で捨てるようなものでも利益があった(山口錫次郎「唐国上海江罷越候儀申上候書付」『続通信全覧 類輯之部29』)。
 上海には外国の大船百数十艘が常に滞在している、6艘の大船は、常に碇していて、英仏の軍艦に「闕乏品」を補給し、「軍艦奔走之急」に備えている、「長毛賊」の「征伐」にフランスの援助をうけたため、フランスに貸した砲台等が返還されていない、諸港はイギリス、フランスに託され、貿易関係の収税や商品点検もすべて外国人の手によっている、外国人は「支那人に対するや奴隷の如く蔑視」している、ドックでは大船を製造しており、修繕の船も絶え間なく来ている、製鉄所は、長崎のものより小規模である、質の悪い米でも1升で洋銀1ドルもするほどで諸物価は非常に高い(「見聞書」『続通信全覧 類輯之部29』)。
 コンシュルは、商法の万事を引き受けて不都合ないように取りはからっており「品代不納」などについて責任をもって弁償する仕組みもある、商品相場は、印刷物で配布され、売買にあたって疑わしいようなことはない、昆布大坂で高値なのに、上海では、余っていて売れず他港へまわる船もあった、煎海鼠干鮑刻昆布は高値だったのでかなり利益があった、「支那人必需之品々」を扱えば「御益現然」である、「必需之品々」は「箱館産物」でもあり、「引続き年々壱両艘」を派遣するようにしたい、各国人の間には「コンペニー法」が発達していて、資金を出しあって大きな商売をしている、「不正実」の商売をするものがいても、コンペニーの仲間で責任を持つようになっている、身許のたしかな者なら誰でも加入できるもので「官許」の必要はない、我国の開港場でもこの法をとりたい(蛯子砥平「上海表御試商法取扱事情奉申上候書付」『続通信全覧 類輯之部29』)。
 亀田丸、千歳丸、健順丸の試験貿易は、自由貿易のあり方の実際、欧米諸国の合理的な商法、その経済力の大きさなどを改めて認識する機会となったようで、外国貿易に積極的に「発航」することによる「国益」も意識されるわけであるから外国奉行、箱館奉行の開明的な積極性は、意味があったはずなのだが試験の域、以上には発展できなかった。開国政策、そして幕府自体が動揺させられている政治情勢下に、試験貿易の方向が進展できる条件がなかったのである。