康正二(一四五六)年から長禄元(一四五七)年に至る蝦夷の大戦の後、和人たちはアイヌ人の攻撃を受けにくい上ノ国方面を中心とする地域に居住していたが、次第にその勢力を盛りかえし、江戸時代の初めころには亀田の地にも居住する者が多くなっていた。
すなわち交通の要地であり、特産物である昆布を中心とする水産物の集荷に都合がよく、また亀田港は本州裏日本諸港より来港する交易船の停泊地として、更に亀田川の豊かな飲料水や、農業に適する広い平野があるなどの理由により、人々が集落を形成するようになったものであろう。
江戸幕府が開かれたと同じ年の慶長八(一六〇三)年亀田八幡宮が建てられ(亀田八幡宮古実記)、年代は詳かでないが、慶長年間に亀田番所が設けられ、亀田郷を治め、亀田港に入港する交易船や往来の旅人などから税を徴収した。また寛永十(一六三三)年五月、曹洞宗の僧芳龍によって高龍寺が、寛永二十一(一六四四)年には浄土宗の僧円龍により一宇(元禄三年より称名寺と寺号を公称)が建立されるなど、順調に発展をとげ、寛文十(一六七〇)年シャクシャインとの戦いの時には箱館はわずかに「から屋あり」と『津軽一統志』に記されているが、亀田村は「家二百軒余」と記されるほどの状況であった。
亀田港の当時の様子について直接記した資料は現在のところ見当らないが、南部藩の日誌である『雑書』に次のごとく記されている。
一 寛文二年田名部浦へ着岸の商船六百三十三艘の内、四百五十艘は上方船、百八十艘は松前船。九月廿一日迄(下略)
寛文三年癸卯歳 五月六日 曇
一 田名部浦(上)方より商船百二十七艘、松前船十七艘去月廿九日迄着岸
八月四日 曇
一 田名部浦上方よりの一番商船百艘。但川内、横浜、佐井泊五月朔日より七月九日迄着岸。二番船九十六艘、松前船七十六艘、川内、横浜、佐井泊五月より七月十五日迄着岸、舟数二百十二艘
寛文二年には秋九月二十一日までに松前船が田名部浦ヘ一八〇艘も入港し、翌三年四月二十九日までに松前船一七艘、五月より七月十五日までに松前船七六艘が田名部、川内、横浜、佐井などの港に入港していることがわかる。当時蝦夷地では亀田港、江差港、松前港が栄えていた時代であり、これら田名部浦に入港した松前船の中には亀田港を出航して行った船もあったものと考えられる。