2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より

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 この時代の郷土の交通状況について詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。
 武四郎の蝦夷地探検は、初航、弘化2年(1845年)から翌3,4年(1846・7)の再航、嘉永2年(1849年)の第3航を経て安政5年(1858年)までの前後6回に及んだが、第3航を終えた翌年の嘉永3年(1850)、初航以来の備忘録を整理して書き上げたのが『初航蝦夷日誌』と称するものである。初航とあるが、ここでの記述されている事柄は、弘化2年から4年(1845~7年)にわたっての見聞を織りまぜてまとめたものである。
 
 蝦夷行程記
 〈椴法華村より根田内村 陸路・山越え〉
 椴法華より    峠下へ            三丁
 峠下より −西院川原−恵山上宮− 峠上追分     五丁
             是よりイソヤ(磯屋村)へ三十三丁下りて 
 追分より     温泉川            廿丁
 温泉川より    ヱサン(恵山)下へ     廿七丁
 ヱサン下より   子タナイ(根田内村)へ    七丁
   
 椴法華村 シュマトマリより半里、転太石浜にして歩行がたし、人家弐十余軒。小商人一軒。他は皆漁者のみ。是より登山するに、村中に華表(鳥居)有、是より九折上がる事しばし。嶮坂岩角をと攀て上るに、此処村の上凡三、四丁も上りて又華表有也。越て九折上がる事しばしばにして火焦石畳々とし岩山をなし。
 峠     中宮華表より五丁斗りといへり。是より北平山にして南は上宮なり。硫黄のかたまりし岩道の上行こと半丁斗にして西院川原世に云うごとし。
 西院川原  (賽ノ河原)多くの石を積み上げたり。此処より上宮に又道有き鳥居を越えて上るなり。
 恵山上宮  石の小祠あり。此処に上るや西の方汐首岬を越えて箱館山、木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南大畑、下風呂サキ、一々手に取るごとく見へたり。
 追分    此処に左右の道あり。左り浜へ下れば九折を下る事廿五丁にしイソヤへ至る。右の方にしばし平野を行、此方より右の方二十丁もひろかるべし。向の方に明礬を製す。しばし行て温泉川、又温泉元ともいへり。
 温泉川  (ユノ川)笹小屋二、三軒かけて此処にて止宿して湯治す。其湯極熱にして水八分、湯二分位也。此川末酸川に至り海に至る。
 ヱサン下  越てだらだら下り四、五丁にして小流あり。越てしばしばにして絶壁、此処を九折にして下り、断崖数百丈崩砂崖なり。道の両傍赤兀にておそろしき処に桟橋を掛けて此処を通ず。しばし下りて左の方の渓に雑樹繁茂して有。
 少し道も穏やかになり、下るまま広野に至る。等過て野道に出、華表有。下りて村の中程に出る。根田内村なり。
 
 蝦夷行程記
  〈椴法華村より根田内村 海路・恵山岬回り〉
  椴法華より−ヒカタトマリ−ミズナシへ    十三丁余
  ミズナシより   カヂカソリ       二丁
  カヂカソリより  トド岩         二丁
  トド岩より    赤兀へ         二丁
  赤兀より     イソヤ(磯屋)     四丁四十間
  イソヤより    温泉(ユ)下      四丁十間
  ユノ下より    サフナイ        五丁二十間
  サフナイより   根田内入口       十丁四重間
  子タナイ入口より 根田内出口       十丁
                       人家三十五軒
 ・箱館より根田内まで『八里十二丁』と有るもの有
 
   余丁未(弘化四年)五月、丙午(弘化三年)の崩跡を見物に此地に行し時、船にて此辺を通りし時の紀行をもて、ここにしばししるし置くに、
 
 椴法華村  椴ホッケ村を盪出(おしだ)し(船出)して二、三丁
 ヒカタトマリ  少しの岬を廻
 水無沢  少しの砂浜、水無しより此名あるかと思う。昆布小屋有人家二、三軒、近来漁事の便りなるが故にここに住するとかや。村の両傍怪岩重畳たり。少しの角を廻て、
 カヂカソリ  此浜恵山の東南の岬に当たる。
 岩磯平坦にしてカヂカ多く生ずる故に号るかと思わる。二三丁海中に海馬岩
 海馬岩  海中に在り、海馬(トド)常に此岩に多く有よし。
 根田内、尾札部の村とす。越えて、
 赤兀岬  (アカハゲ)恵山の第一岬なり。
 波浪荒くして小舟甚危し、岩崖伝ひしばし行て、
 磯屋村 少しの浜有。皆火焦石斗也。恵山の山の直下。人家十二三軒、皆漁者のみなり。
 是より恵山の峠に九折大難所なれども道有よし聞り。昆布取小屋も有。是より根田内村へは海岸岩角道有よし。惣て雨降つづく時はおりおり岸崩れて怪我人有。前に図合船懸り澗ある也。村内に清水一ツ有。漸此一滴水にて村内生を全うす。小流あり。
 温泉下 (ユノ下)此処少し上に温泉あり。湯小屋一軒有。疝気に甚能あり。又、少し行て、
 小瀧   岩岸少しの瀧なり。皆恵山の硫気有てくさし。
 サフナイ  岩の出岬なり。此海中に七ッ岩 と云うもの有り、七ッ同じような岩有、よって号るものか。廻りて村の東端より上陸す。
 根田内村  土人の言には「海上五十丁、山越六十丁」と云へり。
 人家四十軒。小商人四五軒、只酒・米・紙・煙草・わらんじを売るのみ也。村内皆火焦石。浜は小石または転太石なり。村内に酸川、恵山湯本より流れ落ちる。魚類無し、其水硫黄の気多くして呑がたし。庵寺有。村の上に産神の社・制札有。
 
 蝦夷行程記
 〈根田内村よりコブ井村〉
 根田内村より−マル石−ヤマセトマリ−コブ井村入口
                      十二丁五十間
 コブ井村入口より 古武井村分        八丁四十間
 
 根田内出口  是より砂浜、左りの方二丁斗づつ広野有。其上の方木立原なり。浜は昆布小屋多し。
 マル石  丸き石あるよりして此名有也。
 少しの岬の上を陸道越えて下り、
 ヤマセトマリ  昆布小屋有。山せ風よろしき処より号る也。
 古武井村  人家ヤマセトマリより部落つづきにて、この村の支配中五十軒もあるよし也。
 小商人二軒。漁者のみ也。浜あらし。村内に庵寺、産神の社。制札有。傍に小川有。
 
 蝦夷行程記
 〈コブ井村より尻岸内村〉
 コブヰ村より   ヲタイマへ       十六丁五十間
 ヲタイマより   黒石サキ        七丁二十間
 黒石崎より    ヨリキウタ       七丁
 ヨリキウタより  メノコナイ       四丁四十間
 メノコナイより  同峠へ         二丁三十一間
 峠より      イキシナイ川      三丁二十間
 イキシナイ川より サツカイヲタ      十丁四十一間
 サツカイヲタより 尻岸内村        九丁五十一間
 
 ヲタ濱  村を出て砂浜なり。道よろし。越えて、
 ヨリキウタ  寄り木ウタ也。流れ木の寄り来る砂浜と云也。
 メノコナイ  此処平磯。昆布取小屋有、此辺より箱迄の間に出るもの(昆布)は、皆砂浜に干が故に砂多くして下る也。此所より少しの坂道有。越えて、
 イキシナイ  小流有。平磯也。越えて、
 サツカイヲタ  少しの沢有。昆布小屋有。此上に蝦夷の大王の昔し住しと云館跡ありと聞り、其処より今に古器物を掘出す事有りと。浜つづきにて、
 尻岸内村  古武井より一里と云へり。人家十余軒。村内細流有。小商人一軒。漁者のみなり。上に少し畑有。村内に産神社并に制札并に会所有。
 尻岸内村より日浦村へ道 ・浜道と峠越え
 尻岸内村の端に左右の追分有。是より左浜道。汐干る時は是を行によろし。汐満れば此峠(右峠道)にかかり行。然し海岸は余程道程も近し、又千畳敷と申広き場所有。甚風景の処なり。余は此海岸を乙巳(弘化二年)の秋通り、此峠を丁未(弘化四年)の五月に通りたり。然し峠の方は樹木繁茂して黄竈多くして甚だよろしからぬ道。然し馬にて往来の人は是非に是にかかるが故に、此処二道になる也。
 
 蝦夷行程記
 〈尻岸内村より日浦村 ・峠越え〉
 尻岸内より-広野-日浦峠へ        十三丁廿間
 峠より      日浦村へ        七丁二十間
 
 広野  山越えを行くには尻岸内より右の方へ上りて少しの坂上り、しばし行きて木立ち有。峠に至る。
 峠  此処よりダラダラ下りを下る事しばしにて村に至る。
 
 蝦夷行程記
 〈尻岸内村より日浦村 ・浜道〉
 尻岸内より    立岩・千畳敷へ     三丁四十間
 立岩より     カラスガウタへ     八丁十二間
 カラスガウタより ヒウラ(日浦村)    六丁四十三間
 
 立岩・千畳敷  重畳たる怪岩つづきの浜を越えて立岩、壁立高五十余丈の岩面。幅凡四丁とも思ふ。実に屏風のごとき平面なり。その下又千畳敷とも云平磯にして、汐満る時は一面に水となり、干る時は平磯となるが故に、貽貝(いがい)・ムイ・昆布・布海苔・紫海苔・鹿角菜等多し。
 カラスガウタ  少しの砂浜なり。昆布小屋二三軒有。小流有。
 越えてしばしば行きて上下に道あり。小坂を越えて日浦村に至る。
 日浦村  村入口まで、古武井境より一里二十丁三十七間三尺有也。土人は山道一里、海岸半里と云り。人家七、八軒。昆布小屋有。村内小流有。小商人壱軒。漁者にして漁事の間には皆山稼のみなり。
 
 蝦夷行程記
 〈日浦村より(戸井)原木村・カマウタ〉
 ヒウラより    陸道原木峠へ      十丁四十一間
 原木峠より    峠下へ         八丁十三間
 峠下より     ハラキへ        一丁四十間
 ハラキより-ウタハマ-中ウタへ      四丁十間
 中ウタより    カマウタへ       四丁十間
 
 原木峠  (日浦村の)小流れを越えて、浜道を少し行砂浜也。越えて九折を上り、此間甚さかしくして難所なり。峠是よりまた木立原をしばしば下りて、
 峠下  此峠の上、尻岸内、原木の村境なり。下りて浜道しばし行、此下、鯡(ニシン)のよく群来る処也と聞り。此境尾札部より九里廿七丁二十八間あるよし。
 原木村  人家六、七軒。むかしは纔(わずか)二軒と聞り。小流有也。昆布小屋あり。此辺の昆布は巾広く尺長し。花折にするなるべし。
 ウタハマ  人家一、二軒。小砂浜なり。
 中ウタ  同じく人家少しづつあり。小流あり。山近くして樹木なし。越えて、
 カマウタ  (鎌哥村)転太石浜にして、人家十二、三軒有。小商人壱軒。皆昆布とり、漁者のみなり。村端より又坂上る。
 
 以下、この蝦夷行程記の距離数をメートルに換算(1丁を109メートル、1間を1.8メートル)してみる。
 ・椴法華村~根田内村〈陸路・山越え〉6,758メートル
 〈海路・恵山岬回り〉4,781メートル・根田内村~古武井村 〈陸路〉2,343メートル
 ・古武井村~尻岸内村〈陸路〉6,782メートル
 ・尻岸内村~日浦村〈峠道〉2,252メートル
 〈海辺道〉2,025メートル
 なお、尻岸内全村(磯屋村から日浦村まで)の行程は、約14.5(峠)~14.7キロメートル(海辺)である。
 
松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道
 以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離、集落地理・交通状況の主な部分について抜粋し記述したが、この巻之五は、森から砂原・鹿部、臼尻尾札部、恵山を経て箱館までの記録であり、『巻之一』福山(松前)、『巻之二』松前から箱館へ、『巻之三』箱館、『巻之四』箱館から大野・大沼・森を経て山越内(八雲)、5巻あわせて東部和人地と称する範囲について、同様の内容・構成により記述されている。
 これによれば、いわゆる東部和人地の道路・交通状況については、一部、海路を取らなければならなかったが、不便を感じる状況にはなかったことがうかがえる。