写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器
図2 細越館遺跡出土の土師器
青森県では、六世紀に入っても遺跡は極めて少なく、県東側の七戸町大沢遺跡で東北地方南部の土師器編年の住社(すみやしろ)式古段階併行の坏(つき)・甕(かめ)が出土している程度である。また、五世紀ないし六世紀代と考えられる石製模造品(剣形品・有孔円板品)が下田町中野平(なかのたい)遺跡、同町阿光坊(あこうぼう)遺跡、三沢市広沢牧橋(ひろさわまきはし)遺跡、野辺地町有戸(ありと)遺跡、八戸市田向冷水遺跡で出土しており、古墳文化の特徴的祭祀遺物として注目される。
古墳時代後期には、横穴式石室の採用や横穴墓の出現という古墳埋葬施設の変化が生じる。東北地方南部で、五世紀後半以降小型化の傾向にあった前方後円墳は七世紀前半には消滅し、それまでの個人を対象とした埋葬から複数の埋葬を意図した横穴墓の採用へと古墳の性格は大きく変化する。また、宮城県中部から北部の地域では関東地方の土師器製作技法をもった人々が活動していたことも確認されていることから、そこには大和政権による継続的な政策が介在していたといえる。