青森県の古墳文化

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青森県で古墳文化の影響が明確になるのは、この古墳時代中期に入ってからで、年代的には四世紀後半から五世紀代になってからのことである。注目すべき例として、県東側の天間林村森ヶ沢遺跡の土坑墓(どこうぼ)群からは、続縄文文化後半期の北大(ほくだい)Ⅰ式土器と五世紀後半の土師器坏(つき)および大阪陶邑(すえむら)編年Ⅰ期の須恵器高坏・直口壺・蓋などが出土している(写真2)ほか、鉄製品(刀子(とうす)・ヤリガンナ・剣(けん)片・吊り金具状品・環状品など)・玉類(琥珀(こはく)玉・ガラス玉・石製小玉)・漆製竪櫛(たてぐし)などが副葬されており、黒曜石の小破片も検出されている。つまり、続縄文文化の伝統をもった墓坑に、古墳文化の影響を受けた遺物を主体とし、北方からの遺物も副葬されていたわけである。津軽地方では青森市細越館遺跡で南小泉式前半期(五世紀前半)の土師器高坏(たかつき)・坩(かん)などが出土している(図2)。このほか県東側では十和田湖町三日市(みっかいち)遺跡の須恵器直口壺や平内町槻ノ木(つきのき)遺跡の土師器小型壺が挙げられるが、この時期の類例は多いとはいえない。

写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器北大式土器


図2 細越館遺跡出土の土師器

 青森県では、六世紀に入っても遺跡は極めて少なく、県東側の七戸町大沢遺跡で東北地方南部の土師器編年の住社(すみやしろ)式古段階併行の坏(つき)・甕(かめ)が出土している程度である。また、五世紀ないし六世紀代と考えられる石製模造品(剣形品・有孔円板品)が下田町中野平(なかのたい)遺跡、同町阿光坊(あこうぼう)遺跡、三沢市広沢牧橋(ひろさわまきはし)遺跡、野辺地町有戸(ありと)遺跡、八戸市田向冷水遺跡で出土しており、古墳文化の特徴的祭祀遺物として注目される。
 古墳時代後期には、横穴式石室の採用や横穴墓の出現という古墳埋葬施設の変化が生じる。東北地方南部で、五世紀後半以降小型化の傾向にあった前方後円墳は七世紀前半には消滅し、それまでの個人を対象とした埋葬から複数の埋葬を意図した横穴墓の採用へと古墳の性格は大きく変化する。また、宮城県中部から北部の地域では関東地方の土師器製作技法をもった人々が活動していたことも確認されていることから、そこには大和政権による継続的な政策が介在していたといえる。