一つは延久二年(一〇七〇)十二月に陸奥国守源頼俊が提出した当該合戦の報告書(陸奥国解)に対する回答として翌年五月五日に出された官宣旨(史料四六〇)。もう一つはその延久蝦夷合戦から一六年たった応徳三年(一〇八六)正月二十三日、頼俊自身が、かつてのその合戦での功績を強調して新たに讃岐守の欠員に任官されることを望んで時の関白藤原師実に提出した申状(款状)である(史料四六一・写真71)。これらに当該合戦の最中に起こった陸奥国在庁官人(散位藤原基通)による国司印鎰(やく)奪取事件を記した『扶桑略記』『百練抄』などの記録を合わせると、おおよそ以下のような経過を復元することができそうである。
延久の蝦夷征討戦は、それまで中央の大軍が踏み込んだことのない北緯四〇度以北の広大な地域を対象とする一大軍事作戦であった。しかも、前九年合戦を契機に出羽城介が任命されなくなり、陸奥国胆沢城に置かれた鎮守府が出羽国秋田城をも管轄する新たな体制がとられるようになってまだまもない時期のことであることも注意が必要である。
この戦争で動員された兵力の規模や編成の詳細は不明だが、前九年合戦など同時代の例から考えれば、①陸奥守頼俊の率いる国司直属軍を中心とした国府軍、②鎮守府将軍清原武則の孫真衡を主将とする清原一族および鎮守府・秋田城の軍、それに③頼俊の動員に応じた陸奥国内の在地豪族軍、といったものであったろうか。そうした大規模動員であっただけに遠征の準備には相当の時間を要し、おそらく「東夷征討」祈願直後の延久元年夏にまで遡(さかのぼ)るであろうと推測されている。そして、年が明けた延久二年の六~七月ころ、「大将軍」頼俊が後三条天皇の宣旨を掲げて出陣したものと思われる。
その軍勢は「三方之大□(賊ヵ)」に対応して三方面軍編成をとったことが予想され、陸奥守頼俊軍が気仙郡から海岸沿いに閉伊地方へと進軍、さらに北の津軽海峡~北海道方面を目指したのに対し(その経路には異説もある)、清原真衡率いる鎮守府軍が別働隊として秋田城の軍も加えて独自に進軍し、米代川流域から津軽地方になだれ込んで一応の征討作戦に成功した、と推測されている。
実は清原真衡の行動についてはまったくその記録を欠いているが、次に触れるような陸奥守頼俊に起こった突然の不祥事、それによる頼俊の追討使解任、結果としての頼俊軍の目的不達成といった一方で、真衡のみが征討に功ありとして、合戦後、祖父武則の跡を継いで鎮守府将軍に任命されたという事情から判断すれば、このような経過を想定してまずまちがいあるまい。ちなみに延久二年十二月二十六日に頼俊が提出した陸奥国解には、「又、荒夷兵を発し、黎民騒擾す。しかれども或いは本所に追い籠め、或いは其の首を斬り取り、或いは生きながら搦得す。(中略)件の首ならびに生獲の輩を随身し、早く参上すべきなり」と述べられ、激戦の末に大きな戦果を挙げたことがことさらに強調されている。
だが、この延久の蝦夷征討戦争は、当初予定していたような十分な成果を挙げられなかった。そして後三条天皇の政府が意図した本州北部の「蝦夷の地」平定という目標も、完全には達成できなかったらしい。合戦後、清原真衡が戦功ありと認められ、恩賞として鎮守府将軍に任命された一方で、「追討使」であり「大将軍」であったはずの最高責任者の源頼俊が途中で解任され、何の恩賞ももらえなかったことがそれを物語っている。
その原因は、頼俊の出陣直後、留守中の陸奥国府で突如勃発した在庁官人の叛逆、すなわち散位藤原基通による国司印鎰(やく)奪取事件であった。そしてこの事件の結果、頼俊は追討使の地位を解任され、合戦半ばにして戦場から帰還せざるをえなくなったのである。
意気揚々と出陣した頼俊にとって、これはまさに屈辱以外のなにものでもない。もちろんその経緯は、頼俊が朝廷に提出した延久二年十二月の陸奥国解や、応徳三年の申状(史料四六一)にはまったく記されていないが、やはり『扶桑略記』『百練抄』の記述からその実態を復元できる。
事件は、追討使頼俊の出陣直後、陸奥国在庁官人の一人である藤原基通が「国司印鎰」(国司の印と国正倉の鍵)を奪い逃走したことから始まる。国司は現地における天皇の代理人である。その印鎰奪取は国家に対する謀反にも匹敵する大罪で、逆に印鎰を奪われた陸奥守頼俊にとっては、合戦を中断してでも犯人追捕にあたらねばならない致命的な失態である。
しかもこともあろうに犯人基通は、頼俊のライバル下野守源義家(写真72)の下に逃げ込み、そこで降伏したという。義家は早速事態を朝廷に言上するとともに、頼俊の蝦夷征討戦からの召喚を要求する。これを受けた朝廷は義家の議を入れ、頼俊の追討使解任の宣旨が発されることとなった。現地ではおそらく征討戦が本格的に始まったばかりであろう延久二年八月一日のことである。さらにその年十二月、義家は「降人」藤原基通を伴っての上洛を上申してきた。何とも手回しのよい話ではないか。
写真72 源義家
目録を見る 精細画像で見る
こうした事態から、基通事件の黒幕には隣国下野守であった源義家がおり、ライバル頼俊に蝦夷追討使指名の栄誉をさらわれた義家が、前九年合戦の時につちかった陸奥国在庁との人脈を利用して、頼俊追い落としのためこの謀略に出たとする推測も学界ではなされている。もちろん状況証拠からの仮説でしかないが、前九年合戦において義家の父頼義が行った謀略や、この時代の「武士」の棟梁の行動パターンから考えれば、十分あり得る想定であろう。頼俊がこの蝦夷征討戦に成功すれば、単なる栄誉だけでなく、奥州に対する利権、さらには「武士の長者」の地位にも影響しかねないだけに、なおさらのことである。つまり延久蝦夷合戦の背後には、後三条天皇の「日本国統一」の意気込みとは別に、当時急速に勢力を増しつつあった「武士の棟梁」間の暗闘が繰り広げられていたのである。
当然、頼俊は征討軍の一部を割いて、基通追捕に向けざるを得なくなった(この時点で頼俊は基通が義家の下に逃げ込んだことをまだ知らない)。大将軍頼俊自身も早々に閉伊方面の戦場から多賀国府へ帰還することを余儀なくされた。
その意味で興味深いのは、合戦から一六年後の応徳三年(一〇八六)、頼俊自身が提出した申文(史料四六一)には「衣曽別島井閉伊七村山徒」「三方之大□(賊ヵ)」を「討ち随」える大功を挙げ、合戦後「子細を注して言上」したと述べているにもかかわらず、その言上書にあたるはずの延久二年十二月二十六日の陸奥国解(史料四六〇)には、平定した敵対勢力あるいは占領した地域などについて具体的な記述がいっさいなく、戦闘の激しさや捕虜や斬首の多さだけが力説されているにすぎないことである。
こうした戦果の多さだけを数的に強調するのは、古代以来現代に至るまで、敗戦を偽る際の常套手段であり、延久の北方蝦夷征討戦が、頼俊にとって中断を余儀なくされた事実上の失敗であったことを如実に物語る史料となっている。
実際のところ北奥の「蝦夷の地」が延久蝦夷合戦後も消滅せず、なお存続していたことは、一三年後に起こった後三年合戦時の状況からも確認できる。陸奥守源義家は、前九年合戦のときと同様に「俘囚を追討す」と記した国解を提出しており、北奥の状況が前九年合戦の時と基本的に変わっていない証拠ともいえよう(もっとも政府がこれを認めず、「義家合戦」=義家の私的な戦いとして処理したことは、有名な事実である)。また浪岡町の高屋敷館遺跡の発掘調査などによって明らかにされたように、北緯四〇度以北の北奥羽の地に広がっていた「防御性集落」が、延久合戦以後も消滅することなく、津軽地方では一二世紀初めまで営まれていたという事実もこのこととかかわろう。