南部晴政の登場と一族間の対立

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天文八年(一五三九)、「奥州南部彦三郎」が上洛し、将軍足利義晴(よしはる)(写真193)に馬などを進物として義晴の実名の一字、すなわち偏諱(へんき)を賜ることを願い出た。彦三郎は義晴直筆の書出で「晴」の一字を賜り、以後晴政(はるまさ)と名乗ることとなった(史料九〇五。〈「聞老遺事(もんろういじ)」〈写真194〉には「晴」字を乞うた相手を信玄(しんげん)として知られる武田晴信(たけだはるのぶ)、あるいは現在の岩手県南から宮城県北にかけての領主葛西晴信(かさいはるのぶ)か、としているが誤伝であろう〉)。

写真193 足利義晴


写真194 『聞老遺事』晴政公

 従者になるべき者が主君の一字を得ることは、主従関係を緊密にする一つの形である。室町期から戦国期にかけて、奥州の有力武士が将軍の偏諱を得ることはさほど珍しいことではなかった。たとえば南奥の雄である伊達氏は、義持(よしもち)の「持」字を得た持宗(もちむね)を最初に、戦国期の当主輝宗(てるむね)まで代々足利将軍家の偏諱を得ている。三戸南部氏の場合も、安藤氏を十三湊から追放した南部義政の「義」字は、将軍足利義教(または義持)の偏諱を得たものだったとされている(『聞老遺事』、『寛政重修諸家譜』)。
 戦国期において将軍偏諱を拝領することは、他権力からの自立の象徴として、また家臣・領民に対する地位の誇示につながった。その権威の生ずるところは、将軍側が直臣(じきしん)と陪臣(ばいしん)の区別を厳然と守り、あくまでも直臣に限定して偏諱を与えていたことによる。偏諱拝領の特徴として、遠国の国人領主的な存在に対してなされることが多かったことが挙げられるが、このことは、その地域の統一が進行せず、それだけ自立性を主張する武家が多かったことを逆に示している。将軍偏諱を拝領したことで、晴政は将軍の直臣として認定されるとともに、周辺の諸氏や家臣・領民に対して自らの権力の背景に将軍権力があることを誇示することが認められたわけである。このことはまた、三戸南部氏北奥地域に抜きんでた勢力を誇る大名であったことを幕府権力が認めたということにほかならない。
 一方、同じ年、晴政は、居館の聖寿寺館(しょうじゅじたて)(本三戸城、三戸郡南部町)の焼失を機に、三戸城(三戸郡三戸町・写真195)に移る。江戸時代に編まれた『聞老遺事』などでは、家臣赤沼備中(あかぬまびっちゅう)が晴政に対する遺恨から放火したとする(写真194)が、最近ではこの事件を晴政が直属家臣団の拡大・強化を強引に進めたため、その過程で充満した不満が爆発した事件とする見方がある。さらに、聖寿寺館が廃棄された形跡がなく、代々の墓所や寺院、崇敬厚い八幡社などはそのままの位置にあったことから、居城の移転は三戸城下の再編・拡大とする見方が強くなっている。

写真195 三戸古城の図

 晴政の時代、南部氏の勢力拡大は糠部郡より南へと進んだ。天文九年(一五四〇)ごろまでには北上川流域地帯へ進出を図り、志和郡に和賀氏を破り、岩手郡滴石(しずくいし)(雫石)城(岩手県岩手郡雫石町)を攻略し、城主の戸沢(とざわ)氏は出羽国仙北郡角館(かくのだて)(秋田県仙北郡角館町)に移っていった。また永禄年間以降は、これも領国拡大を目指す出羽の下国安東氏と鹿角地方をめぐり抗争が繰り広げられ、永禄十年、鹿角郡は安東氏に、同十二年には南部氏にというように、相互に争奪しあうことになる。
 しかしながら、三戸南部氏は大きな弱点をその領内に抱えていた。それは八戸南部・九戸・久慈・一戸・七戸などの有力な一門を完全に統制できなかったことである。そのことを示す史料として、室町幕府末期の幕府の諸役在任者や大名の名を記した、永禄六年(一五六三)五月という年記をもつ「永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『群書類従』巻五一一)がある。それには、「関東衆」として三戸南部家の当主晴政とみられる「南部大膳亮」と並んで、九戸氏の当主とみられる「九戸五郎」という名が記されている。この九戸五郎こそ、九戸政実(くのへまさざね)(?~一五九一)ではないかと考えられている。この史料の記述から、幕府が「九戸五郎」を三戸南部氏当主と並ぶ北奥羽の有力者と見なしていたことが明らかとなる。九戸氏は周辺の浄法寺(じょうぼうじ)氏・久慈氏、さらに七戸氏、岩手郡の福士(ふくし)氏、八戸南部家の支族新田(にいだ)氏などと縁戚となり、勢力を広げていったのである。このように強大な勢力を幕府によって認められていた九戸氏のほかにも、室町中期まで本家と並ぶ勢力を保っていた一族の八戸南部氏も、一六世紀初頭の家督夭折(ようせつ)や内紛などで衰えてはいたものの、なお独立的な領主権を保持していた。
 さらに、三戸南部氏内でも深刻な内部対立が発生する。その原因は当主晴政と石川城南部高信の長男で田子(たっこ)城主である信直(のぶなお)(一五四六~一五九九)の家督相続をめぐる対立にあった。晴政には五女があり、長女は信直、二女は九戸氏の当主九戸政実の弟実親(さねちか)の室となり、三女は東朝政(ひがしともまさ)、四女は南盛義(みなみもりよし)、五女は北秀愛(きたひでちか)と、それぞれ一門に嫁いだ。はじめ、晴政には男子がなく、信直を迎えて嗣子としたが(写真196)、男子晴継(はるつぐ)が生まれたことを契機として、両者の仲は徐々に険悪なものとなった。晴政時代の後半期、元亀年間(一五七〇~一五七二)ころには、南部家中が両派に分かれて内紛が続いていた。このころのものと思われる晴政とそれに与同した名久井城主東政勝(ひがしまさかつ)の書状によれば、彼らは信直支持派の剣吉(けんよし)(現三戸郡名川町剣吉)城主北信愛(きたのぶちか)(一五二三~一六一三)・浅水城主南慶儀(のりよし)(盛義)を攻め、七戸氏八戸南部氏にも出馬、与同を求めたという(史料九八〇~九八五)。南部領国は分裂し、混乱状態に陥っていたようである。

写真196 『聞老遺事』信直公

 このような中、津軽地方では、新たな動きが胎動しはじめる。