そのような中、津軽弘前藩は、寛文十年五月末、幕府の内諾を得て、蝦夷地で情報収集活動を行っている。上蝦夷地には牧重清(まきしげきよ)、下蝦夷地には秋元吉重がそれぞれ長として遣わされた。寛文九年に得た情報は、いずれも松前城下で獲得した、いわば伝聞情報であったが、それに対し、寛文十年に蝦夷地へ派遣された牧重清の隊は、他藩の人間としては初めて「ほろもいの澗」(現積丹郡積丹町)・「おしょろ」(現小樽市)・「のまない」(積丹半島の日本海側沼前岬の北)でアイヌとの接触に成功し、直接その主張を聞くことができた。牧は、石狩アイヌ・ハウカセの動静が把握できず、石狩への探索を断念している。しかし、「津軽一統志」には、石狩へ赴き地形を実測し、あわせて川の深さをも調査したと考えられる数通の報告書と、現在の宗谷地方に至る船路によって知りえた地理上の情報が掲載されている。このような貴重な情報を入手した牧は、帰国後探索書を提出した。内容は、松前全島の絵図、「松前上下口々商物」、全島産物出高、松前上下国々より諸方への道程、山河・道路の難易、松前より蝦夷地の地名・戸数、石狩の地形、湊口浅深・風の順逆、の八項目にわたっていたという(『伝類』)。牧は幕府への報告のため出府もしている。
牧がアイヌから情報を得て帰国したのと前後して、則田安右衛門と唐牛甚右衛門が使者として松前城下に派遣された。彼らは松前藩士、同地の町人から情報を入手した。彼らが得た情報は、上・下蝦夷地への密偵船に関する松前城下での風評と松前藩の対応、償いと交易再開をめぐる上・下蝦夷地のアイヌの対応、石狩の地形と石狩アイヌ・ハウカセの動向、交易がとだえて火の消えたような松前城下の様子、松前藩の兵糧等などである。これらは、牧によってもたらされた情報の補充という意味を持っていた(『伝類』)。松前藩は、寛文九年末に蝦夷仕置について幕府の指示を受け入れることを表明し、寛文十一年に同藩がアイヌから得た起請文では、米一俵に皮五枚、または干魚五束という交易基準が明記され、若干の改善をみた。これらを考えあわせると、収集された情報が幕府を動かし、松前藩の施策の変更を導き出したともいえよう(浅倉前掲書)。
図95.津軽一統志所収の蝦夷地の図
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