領内アイヌ支配の変化

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津軽領内のアイヌ支配は、寛文年間を境に大きな変化がみられる。寛文五年(一六六五)十一月十一日の「御蔵百姓諸役之定」によれば、蔵入地百姓に対して諸役の一つとして一斗一升(代銀二匁六分)の犾米(蔵からアイヌに売却される米)納入が定められていたが、寛文末ごろになると史料からその姿を消していく。その原因は、藩とアイヌの間に海産物や熊皮、貝の玉、オットセイ、などの献上と、それに対する米・銭の下賜の件数が増加し、恒常化したことにあったようである(浪川前掲論文)。
 寛文二年(一六六二)から元禄十年(一六九七)にかけて「国日記」に現れる領内アイヌからの献上―下賜をまとめると、表19のようになる。元禄元年(一六八八)には下賜される米・銭が、献上量や質によって定められ、さらに元禄六年(一六九三)にはアイヌの献上する串貝を見本に合わせて作らせたこと、元禄十年には「貝ノ玉」を上中下に三分して代銭の額を定めるといったことなどは、藩への物品献上―米・銭の下賜という関係はアイヌと藩との間の朝貢関係と位置づけることができる。
表19 アイヌ献上品
月     日朝  貢  者朝 貢 品下賜品
1662(寛文2年)3月2日熊の子
1666(寛文6年)7月17日今別狄 和泉熊皮  4米10俵
1677(延宝5年)2月9日今別犾 林蔵膃肭獣 1 
     3月8日今別犾 かふたいん串  5連米3俵宛
    るてるけ蚫   30
    へきりは栄螺  40
1678(延宝6年)6月12日外浜狄熊皮  2枚米1俵宛
     8月23日今別狄 かぶたいん各々膃肭獣1
  昆布1把
酒被下
米三俵宛
    るてるけ
    ゆきたいん
    へきりは
1679(延宝7年)3月7日今別狄 かふたいん膃肭獣 3米三俵宛
    へきりは
    るてるけ
1681(天和元年)3月17日今別狄 万五郎貝玉  大小米2俵
熊皮  4枚同7俵
1684(貞亨元年)5月28日今別狄真珠   4米3俵
     8月17日今別うてつ へきりは膃肭獣
串貝
米2俵宛
 松ヶ崎 ちせかる
 藤 島 るてるけ
 釜ノ沢 ししはあいぬ
 六条間 かのたあいぬ
 砂ヶ森狄 清五郎串貝米1俵
     9月21日今別狄うたのくねきらいぬ串蚫  5連米5俵
 こせうつか あつまいぬ串蚫  5連米5俵
 かねうたの じろきち鯣   5把米2俵
 すなかもり ふくたあいぬ鯣   5把米2俵
1685(貞亨2年)5月4日今別狄 清八貝玉   1
10月11日釜野沢狄初鱈   11貫文
1687(貞亨4年)3月18日今別藤島 るてるけ熊皮  3枚
 松ヶ崎 してかあいぬ熊皮  1枚
 両人貝玉   2
     8月3日今別狄貝玉   2米2俵
1688(元禄元年)5月19日今別狄 るてれき貝玉   1米1俵
熊皮  4枚160目
1689(元禄2年)4月17日今別藤島狄 いくるい熊皮  2枚(前格之通)
真珠   1
     9月20日今別松ヶ崎 左平次黄鷹   1米1俵・路銭
1690(元禄3年)8月23日今別狄  るてるけ貝の玉  3(先格之通)
     12月23日松ヶ崎犾 にいへて串鮑米5俵
1691(元禄4年)2月9日うてつ狄 へきりは膃肭獣  1
串貝  1台
     3月26日今別犾真珠   5(先格之通)
熊皮  4枚
1692(元禄5年)10月8日松ヶ崎狄 左平次鷂    1
     10月28日今別狄
     11月26日今別狄月袰 ちへべかひいん蚫貝玉  2
あさり貝玉1
しゆり貝玉1
たこ舟  2
舎利生石 1
黒苔   1
魚    1
1693(元禄6年)3月3日宇鉄狄 へきりは貝之玉  6米三俵
わかめ  1
黒のり  1
こぶのり 1
串貝   2
    しかむいける貝之玉 21貫文
    おつかい
    しゅにんあいん貝之玉  52貫文
     3月8日宇鉄  へきりは串貝   2
松ヶ畸 ちせかる串貝   1
     3月9日宇鉄  へきりは
松ヶ崎 にいへか犬串貝   52貫文
黒苔   1
こふのり 1
わかめ
     9月24日今別  かのたいぬ黄鷹   1往還の路銀
1694(元禄7年)6月12日今別  清八貝玉   1
     11月22日藤島  るてりき膃肭獣  3
真珠   3
1695(元禄8年)3月15日松ヶ崎 にいへてい串貝   5米3俵
すかい  36
かいば  5
白干蚫  5
串海鼠  22貫文
1696(元禄9年)11月23日袰月  ちゑへかいん串貝   20米1俵
花入(瀬物)1
     12月19日宇鉄  るてるけ貝の玉賜 食被下物
     12月22日藤島  るてるけ貝の玉  4代物
串貝   3
1697(元禄10年)2月13日外浜大川平 ほこうかい犾真珠   6
熊皮  1枚
     3月2日金ヶ宇田 ふくたあいん真珠   3(先格之如)
熊皮  1枚
奥平辺 源太郎熊皮  1枚
    おたかあいん子真珠   2
     3月10日藤島  るてれき真珠   5
串貝   2
     3月17日    いそいはたいん真珠代米
熊皮
注)国日記より作成。

 宝暦六年(一七五六)、折から外浜を巡視していた、「宝暦改革」の立役者乳井貢(にゅういみつぎ)によって、外浜居住のアイヌの人々は「犾」としての政治支配を廃され、「人間」として扱われることとなった(資料近世1NO.九三五)。この政策も改革の一環としてとられたものであり、身分の上昇と引き替えに収奪の対象として位置づけられた。この時、松ヶ崎六条澗(ろくじょうま)・藤島(ふじしま)・釜ノ沢(かまのさわ)・上宇鉄(かみうてつ)・下(しも)宇鉄に居住する六村の蝦夷の中には、この宝暦の和人化政策を嫌って山に逃げ込んだ者もあるといわれる。
 文化三年(一八〇六)には、六条澗村から上宇鉄村に至るアイヌの人々が残らず「王民(おうみん)」として編入され、藩からの諸役が科されることになった(「秘苑」文化三年十月二十七日条)。先の宝暦改革時の「犾」政治支配廃止後も民族文化を保っていた人々に対して、折からの対露緊張下において蝦夷地の「内国化」政策を採った幕府政策に影響されたもので、より一層の和人化を図ったものと思われる。