「不作」と本百姓体制―貞享検地の前提―

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貞享検地の直前の農政の様子を、貞享四年(一六八七)二月の家老連署による「新検已後被仰渡候条々」(資料近世1No.八四五)からみてみることにしよう(以下は、浪川前掲「津軽藩前期農政の解体」による)。
 まず、「新検」以後の理念を、「石盛ゆるやか」とすることで、農民に余剰米があるようにすることにおいている。そして、それを実現するために農民は耕作に精を出すことを求められた。しかも、それは、何よりも「不作」にしないためであり、藩の「不作」を回避したいという姿勢をうかがうことができる。さらに、「不作」によって年貢の未進が発生した場合、「代官又ハ支配頭之不念」と、支配機そのものの責任として追及することになる。それだけ「新検」、すなわち、貞享検地により「不作」を回避する支配体制をとりえたとする藩の姿勢をうかがえるが、逆にいうと、この検地の課題は、「不作」を解決することにあった。
 ところが、例年の検見(けみ)にもかかわらず、この時期の土地保有の急速な変化に対応できなくなっていることがわかる。そして、さきに触れたように、夫役を負担する本百姓の経営は、「軒」ごとに掌握することが原則であったのであるが、このように土地保有の変化に対応できなくなったために、事実上本百姓の経営の把握が不可能になっていた。したがって、十七世紀末の状況は、「不作」が連続することで、年貢夫役を負担する本百姓は経営を脅かされ、分化・解体の途をたどることになる。これは土地の移動ということで表れた。このような変化が進展することにより、藩はこれを個別的・地域的な検地では把握しきれなくなった。このことは、本百姓の解体と、彼らを直接・個別的に掌握していた農民支配の在り方の破綻(はたん)を意味していた。
 天和二年(一六八二)の唐竹(からたけ)村(現南津軽郡平賀町)を例に挙げると、「御百姓」が生活や生産に差を持つ貧富の二階層に分化していたことが知られる。そして、生産の面では各作業の終期が遅れる傾向にあり、特に田植えの終了の時期はこの二階層で異なっている。この違いは、両者の経営規模の違い、労働力に即していうと、協業的な組織力の大小などによって両者が規定され、それが「御百姓」間の農耕の作業過程での遅速を生じさせていた。そして、こうした作業の遅延傾向は、結果として収量の減少の可能性をはらんでいた。
 これが、領内で一般的なものであったかどうか、貞享三年(一六八六)十二月二日の「新検已前諸品上納之事」(資料近世1No.八四五)によれば、当時は一般的に「不作」が起きており、また、過重な夫役が農耕の作業を遅延させ、「年々不作仕」る原因となっていたようである。こうした「不作」現象は、すべての農民に一般的に生じていたのではなく、さきの唐竹村でいうような下層の「御百姓」の耕作遅延の結果生じたものであると考えられる。つまり、この前期末期には「御百姓」すなわち本百姓が階層分化の危機にあり、それが造的な「不作」現象を生み出していた。このことは、本百姓体制の解体にさえ結びついていた。
 すでに寛文期に、たとえば夫役賦課に当たり「御百姓」を「上中下」に三分している(『御定書』)。これは、「御百姓」の階層分化に照応したものであり、さらには、軒掛の賦課方式の実質的な崩壊の端緒でもあった。そして、寛文期の変化を始期として、延宝期には顕在化し、天和期にそのピークを迎え、さきの唐竹村本町村(現南津軽郡平賀町)では、蔵入地の半分近くが無主地化、請作の状況となっていた。これは、下層の本百姓が、「不作」状況下で経営を解体させ自らを水呑へと転落させた結果、請作地を増大させたと考えられる。逆に、延宝期まで夫役と農業耕作とが存立しえたのは、「新検以前は何も田畑有余御座候」(資料近世1No.八四五)とあるように、藩の土地把握の点での弱さ、つまり、一筆ごとの生産力の掌握の不十分さと、その上に成立した本百姓経営の粗放的性格によっていたからであった。
 さきにみたように、例年の検見の際に「地面不同成儀多候ニ付百姓壱人前之抱方も不存」と一人ごとの「抱方」も把握できていなかったのである。このような前例を踏まえ、貞享検地は、単なる検地にとどまらず、土地と農民への支配体制を再編成しようという性質を持つものとなった。