親方町に住んでいた竹内勘六の由緒によると、先祖嘉右衛門は、高松の出身で、天文年間(一五三二~一五五五)に十三湊へ商船乗廻を行い、天文十三年(一五四四)に津軽に移住したという(長谷川成一「本州北端における近世城下町の成立」北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』一九九三年 三省堂刊)。持船商人の例としては、彼の持船が為信の上方上りに徴用されたことを記しており、そこに初期豪商的な性格も認められる。また、この嘉右衛門は、越前三国(みくに)の瀧谷寺(たきだんじ)の高僧を津軽に招き、橋雲寺(きょううんじ)・百沢寺(ひゃくたくじ)の開山とし、さらには最勝院(さいしょういん)の住職としたとある。彼は、越前三国湊との交流があったこともさることながら、文化・宗教の移入者として、多くの情報をもたらした商人であったという。
また、兵庫屋佐兵衛の由緒書には兵庫の浦、笠島太平太の由緒書には越後出身の商人が認められ、特に、笠島氏の先祖は、天正から文禄にかけて越後から津軽へ乗り込み、鰺ヶ沢を拠点として茶の販売を営んでいた問屋であったという。このように、十六世紀の末ころには、近世日本海交易の原形が、かなり具体的な姿を現しつつあったといえよう。