十八世紀半ばには寛延二年(一七四九)と宝暦五年の両度、大きな凶作が続いた。寛延の場合は同じ青森県域の八戸藩では俗に「猪飢渇(いのししけがじ)」と呼ばれ、約三〇〇〇人の餓死者を出した(『天明卯辰梁』)。「猪飢渇」とは猪の大量発生により畑作物が食い荒らされたことによって引き起こされたといわれていたからだが、必ずしも獣害だけでなく、同年の飢饉では冷害の影響も強かった。津軽の例でいうと、立春より寒く三月中旬になっても雪が降り、「五月下旬より雨並東風にて六月も綿入着し候」(『平山日記』)と述べており、典型的な東風(ヤマセ)気候で、七月末に出穂のところ、大風が吹き稲がなぎ倒され、凶作が決定的になった。七、八月には米価も高騰して乞食が出て空き屋敷が目立つようになり、特に青森や海辺・下在新田通(現五所川原市・北津軽郡)で乞食や餓死者が多かったという。
藩は飢人(きにん)小屋を設置し、三十歳以上の者に御救米を支給するなどの処置を取ったが、翌春になっても弘前では在方から飢人や乞食が入り込み、川原や道端に餓死者が多くみられる状態だった。弘前の大圓寺では餓死者の亡骸(なきがら)を供養したが、その数は八九〇人に及んだという(『平山日記』ほか)。