図156.家業鑑札
一方、在方においても、田畑の耕作をしながら商いをしている小商人を農事に専念させることとしたことや、また引っ越し者の受け入れ先の把握や、田畑の受け渡しの問題などから、必然的に領内の戸籍についての調査および確定が不可欠のものとなった。もちろん、このいわゆる人別改めは領内支配の基本であり、例年行われてはいるが、人返しや家業改めを機に、天明飢饉の混雑を一掃しようと徹底して行われることとなった。
この作業は、寛政三年(一七九一)から同五年にかけて実施された。「戸籍方仕向之義」(同前No.六九)には、戸籍調査の実施理由と内容について次のように記している。
卯年(天明三年)の飢饉以来「未作遊民」のみ多く「正業之民」は半減している。そのうえ職業は混雑し、同居・借家などの申し出もないことから取り締まりが徹底していない。そこで、領内の戸数・人別、諸工・諸家業の新古の別、さらには出所・生所の出入りまで詳細に取り調べることとする。そして領内の諸工・諸家業を定めたうえで、それ以外の小商人を禁止し、在方から町方に移住した者を残らず帰村させる。また、無断での家業替えはもちろん、新規の家業・借家なども一切差し止めとする。というものであった。調査をし、在るべき姿を定め、その定めに反するものについては禁止し、その結果を人別帳に仕上げていったわけである。その結果、寛政六年に完成した元帳は一二九〇冊に及んだ。
調査に当たっての指示事項は多岐に及ぶが、多くは諸家業・諸職・諸工・借家の統制に関するものであり、家業札・借家札の下付をもってその数を規制している。これは寺社門前でも同様の措置がとられた。在方においても、大村の指定場所に造酒・木綿店を許可し、交通の要所には小売り酒と旅用品の小商売を許可するが、他はすべて禁止された。ただし不足している諸職人については願いにより新たに借家札を交付したり、その業種によっては、在方から弘前・九浦への引っ越し住居を認めている。
なお、これらの措置を徹底するため、家業札の掲示を命じるとともに、隠家業・隠職・隠仲買、さらには隠田畑・隠津出などについて、五軒組合に過料を定めて取り締まりの末端を担わせている(資料近世2No.五一・五二・六九)。
寛政三年から五年のこの時期は、藩士土着策が本格的展開をみせ始める時期であり、寛政五年令では「永久在宅」が打ち出されている(本節二(二))。人返し令とこれに伴う人別改めは、土着策と同時進行でなされたのであり、またなされなければならなかった政策であったのである。この人別改めの方法は、寛政七年三月「人別方御用取扱條例」(弘図八)として若干修正・整備されるが、その後の元帳記載方法の基本となっている。